第16話

(う……わっ!)



思わず漏れそうな感嘆の叫びを、財前はとっさに飲み込んだ。




そんな彼の動揺など気にも留めず、羽那は穏やかに、しかし一方では妖艶にも見える笑みを目元に浮かべて財前を見つめながら言った。


「知ってますか? 蛍が光るのは、どういうときなのか」


財前は平静を装って、しかし上ずった声を笑いでごまかしながら答える。


「あ、さ、さぁ? 暗くなると光りだす、んじゃないんですか?」


羽那は口元をほころばせながら少しだけ首を右側に傾けた。彼女の細く白い首筋があらわになって、財前はますます動揺する。


「敵を威嚇する時や、今私がしたみたいに何らかの刺激を受けたとき、そして……求愛する時です」


「……」



財前は思わず口元を手で覆った。動揺が情けない声になって口から漏れそうだった。


きっと今、彼は赤面しているに違いない。トマトのように、茹で上がったカニのように。夜でよかったととっさに考えることができたのは、自分の精神状態を保つためにはかろうじて役に立った。



(何か、気の利いたことを言わねば!)



焦るばかりで、頭の中は真っ白だ。今まで数多くのピンチをかの有名な藤倉瑛士の秘書として乗り越えてきた、つねに先を読んでいくつかのオプションを想定して行動する男だったのに。今の財前は、完全にバグ状態だ。


「は、羽那さんは物知りなんですね……」


ごまかしの苦笑を浮かべながら、心の中では自分自身に舌打ちをする。いやそもそも、好意をもつ相手とふたりきりのロマンティックな状況にいて気の利いたことが言えていれば、いくら仕事が忙しかろうとカノジョのひとりやふたり、いや、一人くらいはいたはずだ。


結局、彼は仕事はできるが恋愛に関してはヘタレなのだ。



「財前さん?」


とんとんと腕を軽く叩かれて我に返る。


「は、はい?」


秘かに深呼吸をしながら、ゆっくりと話す。


羽那は縁側から立ち上がり、財前の右手を引いた。


「散歩に行きましょう? 五分ほど上流に行くと、蛍の沢があるんですよ」


羽那のやわらかな細い指が、財前の指に引っかかる。彼に選択肢は無い。手を引かれるがまま立ち上がり、従う。月の光を反射してキラキラと光る小川に添って、丈の短い草を踏みしだき小道をそぞろ歩く。


もしも口にして彼女が意識して手を離すと嫌なので、そこは触れずに引かれるがままに手を取られたまま歩いている。


二人に寄り添うように、蛍たちがふわふわと飛び従ってくる。



「ほら、あそこです」


まるでとっておきの宝物を見せる少女のように、羽那が声を弾ませて少し先の小川を指さす。


「あのあたりで蛍が成虫になって……あっ……!」


繋がった手が、張られた力で引っ張られた。羽那の体がバランスを失い前のめりになる。財前はとっさに羽那のウエストを捕らえてバランスを保った。


「危なかった。暗いので、足元に気を付けてください」


安堵のため息とともにそういうと、羽那は息をのんで固まった。


財前の吐息が彼女のうなじにかかった。大きなてのひらが、彼女の帯のあたりをがっしりととらえている。


羽那はそっと背後の財前を振り仰ぐ。


「あっ、す、すみません……っ」


目が合う。


暗いけど、わかる。


お互いの瞳には、お互いが映っている。


ふたりとも、なすすべがなくそのまま三秒見つめ合った。



ほわん。


ほわほわ……



無数の蛍が彼らの周りを飛び交う。


財前は恍惚の表情で腕の中の羽那に見とれる。


羽那は今初めて財前のことを特別に認識したかのように驚き、固まる。



「は、うわっ!」


「きゃっ!」



突然、一匹の大きなカブトムシがいかつい羽音を響かせながら財前の目の前をすれすれに横切って行った。


財前は思わずバランスを崩し、羽那を両腕の中にかばいながら草の上に倒れこんだ。


草の青い香り。花那の華奢な重みとやわらかな体温と、そして彼女の髪のかぐわしい香りに財前はくらくらする。


「大丈夫、ですか?」


胸の上に乗る軽い重みに問いかける。


「だ、大丈夫です。あっ、それよりも、財前さん、お怪我はありませんか? 今の、カブトムシ?」


「びっくりしましたね。あんな目の前を飛んでいくなんて。もう少しで顔面直撃でした」


はは、と財前は軽く笑った。


鼓動が、重なる。もう、どちらの鼓動が速いとかではなく、どちらも不整脈レベルだ。


「あ、あの、お、起きます。重いでしょうからっ」


羽那が弱々しい力で財前の腕の中を抜け出そうともがく。我に返った財前は腕の力を緩めて羽那を抱えたまま上半身を起こし、彼女から腕を下ろした。二人は草の上に呆然を座り、また見つめ合う。


「ふ」


羽那が首をすくめて袖の陰で突然笑う。財前は首をかしげる。


「いえ、夜露で。冷たいですよね」


湿った草の上に倒れこみ、今は座り込んでいるので、二人の着物は夜露で湿っていた。


「おしり、冷たくないですか?」


「あ、はは。確かに」


財前も笑いを漏らす。



ほわほわ。


ほわ。


蛍が飛び交う。



草の上の夜露までもが、キラキラと輝いている。


財前は立ち上がり羽那の手を引っ張り上げた。



(なんて、軽いんだ)



細い手首。あんなに流麗で伸びやかな文字を生み出すとは、信じがたい華奢な手首。


夢でも幻でも、この世でもあの世でも何でもいい。


今この瞬間が、今までにないくらいに幸せだ。



あなたが、好きです。


そう伝えたいけれど、少し、こわい。



言葉にして、彼女がもしも、困惑したら。



もしもこれが夢幻ではなく、数日後に街に戻ることができたなら。


そうしたら、思いを伝えてみようか。


それまでは、今のこの幸せな気持ちのまま過ごしたい。


それまでは、蛍のように光ることができるなら光るのに。


言葉にはせずに、もう少しだけ、このままで。



引っ張り上げたままの手を握り、夜道は足元に気を付けないととかなんとか言って、蛍の沢からもと来た小道をゆっくりと戻る。




このまま時間が止まればいいのにと、何度も思いながら。

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