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第15話
「蛍の和歌と言えば……あれ、じゃないですか。和泉式部」
もの思へば沢の蛍もわが身より
あくがれいづる
たまかぞとみる
(思い悩んでいると、沢から飛んでくる蛍も私の体からさまよい抜け出てきた魂なのかと思えます)
「失恋した後の、むなしい感じの歌ですよね。失ってしまった恋も恋には違いないから、無難にこの有名な歌でもいいかなとは思ったんですが、どうもしっくりこなくて」
ふう、と浅いため息をついて羽那は苦笑した。
「うーん。一匹にとどめておいてほしいですね。あちこちたくさん無数に分裂して飛ばれると、怨念こもっていそうでなんだか怖いから」
「もちろん、一匹だけのことじゃないですか?」
二人はくすくすと笑う。
「蛍で古典と言えば、僕は『源氏物語』を思い出します。高校の古文の時間に、担任だった国語の先生が自分の大学の卒業論文のテーマだったと言って、話してくれたのをなぜか今でも鮮明に覚えています」
「お恥ずかしながら、教科書に載っていたところくらいしか知らないです……」
羽那は恥ずかしそうにうつむいた。
「僕も似たようなものです。でも登場人物の関係が衝撃的すぎて、なぜか今でも覚えてるんです」
「蛍って、出てきました?」
「出てきましたよ。光源氏が若い頃に夢中になった薄幸の女性がいたんです。それが夕顔。その人は光源氏のライバルで親友で、嫁の兄だった頭の中将の元カノなんです」
「あー、夕顔。たしか、光源氏の年上の愛人で、未亡人の六条の
「そうそう。実はその夕顔には頭の中将との間に娘がいたんです。
「なんか……現代よりもなんでもアリな人間関係ですね……」
「はは。たしかに。源氏は玉鬘を自分の娘と称して引き取るんです。それで源氏は年頃の美しい玉鬘を多くの男たちに懸想させて彼らの様子を楽しむんです。一方では、娘と言いながら玉鬘の美しさが惜しくなって、彼女を口説いて困惑させる。悪い養父ですね」
「サイテーですね。光源氏のような男性がいたら……死んでも近づきません」
「親友の娘を囲うのはヤバいですね。そこです、そこで蛍です。光源氏は自分の腹違いの弟である
「ああ! 蛍!」
羽那が目を大きく開く。
「蛍兵部卿宮は源氏のいたずらにまんまとハマって、蛍のほのかな光で見た玉鬘にすっかり恋心を抱くんです。それで、求婚し続ける。でも結局は
「蛍の光で姿を見せるなんて、ロマンティックですね」
「ですね。でも……」
声はせで身をのみこがす蛍こそ
いふよりまさる
思ひなるらめ
(何も言葉を発せずに思いを光で伝えようとする蛍は、あなたのように好きだ好きだと言葉にする人よりもはるかに、思いが深いのでしょうね)
「——と、玉鬘は蛍兵部卿宮の恋文につれない返事をするんです」
「振られちゃうんですね。それでその担任の先生の卒論のテーマは何だったんですか?」
「ええと。親友と元カノとの娘を養女にして、多くの男に懸想させておいて一方では自分も口説く、これは源氏が三十五歳くらいの時で、
財前が苦笑すると羽那はおかしそうにくすくすと笑った。
「まあ、たしかに矛盾してますね。ちょっとユニークな説ですが」
なんて……笑いながら話していたら。
風もなくひらひらと重力に従い散り落ちる桜の花は、夜の闇の中では青白く発光しているように見える。
その合間合間を、青白い蛍の光が重力に逆らいながら飛び交っている。
財前は口をぽかんと開いたまま頭上を見上げる。
「うわっ……ありえない光景だ」
羽那はふふ、と笑って両肩をすくめる。
「きれいでしょう? ここでだけ、特別にみられる光景です」
ふわり。
彼女の髪に降りかかるのは、散り降りてきた桜の花か、あるいは、気まぐれにかすめ飛ぶ不思議な色の蛍の光なのか。
「うん。とてもきれいだ……」
財前は目を細める。
桜もきれいだ。蛍もきれいだ。
そして何よりも、隣に座る羽那が、とてもきれいだ。
自分がうっそりと笑んでいることなど、彼は気づいていない。
ただただ、今まで感じたことのない感情にも気づかずに、傍らの女に見とれている。
「あら? ちょっと、じっとしていてくださいね」
羽那は財前の着物の上腕のあたりから、両手で何かをそっと
「なんだ、光っていないみたいですね」
それは、光を発していない一匹の蛍だった。花那はふふ、と微笑むと財前をいたずらっぽく見上げて静かに言った。
「光らない蛍はこうすれば光るって、知ってます?」
一匹の小さな虫を包んだ両手に、彼女はふう、とゆっくりと息を吹きかけた。
「あ」
すると彼女のてのひらの上から、青白い光を放った蛍が桜の花々の間をぬって、ふわりを宙に舞い上がった。
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