第14話

ひらり。



花びらが昼寝の額にかすめ落ちてくる。


はっ、と目覚めて上半身を起こせば、腹にはタオルがかけられている。それを畳み、寝乱れた着物を整えて辺りを見回すと羽那の姿はない。


「……」


財前は呆然とする。



いま、目覚めるほんの一瞬前までは、自分がどこに帰るべきなのかちゃんとわかっていたはずなのに。目覚めた今は、何も思い出せない。


庭を見る。


相変わらず、夏景色の深い緑の中に一本だけ春の盛りをその枝々にとどめたままの満開の桜の大樹が誇らし気に鎮座している。


桜の花は風になびいてひらひらと飛んでゆくのに、枝は満開のままなのだ。


この桜は……散りおわらない・・・・・・・




「羽那さん……」


隣の部屋で、彼女は一心に文字を書き散らしていた。


着物の袖をたすき掛けにして、額にはつぶつぶと汗が浮かんでいる。


普段話している時のほわんとしたつかみどころのない雰囲気はそこかに消え失せて、垂れ気味の大きな瞳はギラギラと輝いている。


もちろん、呼びかけた財前の声も、届いていないようだ。



彼は柱に右肩で寄りかかり、しばし彼女の様子を観察する。


真剣な人は、美しい。


顔の造形の話ではない。


何かに打ち込んでいる姿は、誰でも尊い。



(あの真剣な表情も、すごく素敵だな……)


財前はそっとその場を離れ、土間に向かう。


かまどの上に置かれた鉄瓶から、二つのコップに麦茶を注ぐ。両手にそれらを持ち、羽那のいる部屋へ戻る。



「お疲れ様です」


今度は彼女は財前に気づいてにこりと笑んだ。先ほどの鬼気迫る様子はどこかへ消えて、いつもの柔和な雰囲気に戻る。


「何とか感じがつかめてきました。ここ数週間ずっと悩んでいたのに、財前さんと話していたらすんなりと四首ぶんも決まってしまって、残りはあと一種類ずつ、二首だけです」


「蛍と、夜ですね」


「そうです。毎晩、蛍を眺めながら考えているんですが……」


「えっ? 毎晩、ですか?」


「ええ」


「いるんですか? この辺に?」


「いますよ。だってほら、庭に小川が流れているでしょう? そこで生まれ育つんです」


「昨夜もいましたか?」


「ええ、いましたよ」


「うそ! 見たい!」


「では今晩、ぜひ」




蛍なんて……小さい頃に二度ほど見たきりだ。



昨夜はただただ、外にあるトイレに行くことにあまりにも集中しすぎていて、蛍がいるなんて気づかなかった。


うん?


桜がまだ満開なのに、一方では蛍がいるんだな……?


またまたそんな常識的な考えが頭をよぎる。そしてすぐ、まぁいいかと手放してしまう。



「桜狩りもついでにしましょうか」


蛍を見るついでに、満開の夜桜も見物しようと羽那が言った。


だから今、財前は羽那と、桜の大樹の下に縁台を引っ張り出してきて座っている。


雪の夜がほの明るいのと同じで、闇の中で桜もぼんやりと浮かび上がっている。


「蛍は、そのうちここまで飛んできますから」


羽那は満開の桜を見上げながらやわらかく微笑んだ。その横顔に、財前は思わず見とれてしまう。と、おもむろに彼女がこちらを向いて微笑んだので、驚いて息が止まってしまう。


「あ、は、は、はい」


笑ってごまかしながら、財前はこくこくとうなずいた。






  世の中に


  絶えてさくらのなかりせば


  春の心は


  のどけからまし




羽那はその歌を、とても小さな声でつぶやく。


小さな唇が動くのを見て、財前は胸が苦しくなる。鼓動が乱れて呼吸の仕方を忘れて頭が真っ白になる。



(なんだこれ、まるでいま初めて、誰かを好きになったみたいな)



自嘲気味に笑うと、ようやく落ち着いてきた。



(きっと、和歌に感化されているんだ)



どうにかして、平常心を保とうとするけれど……


一方では、認めざるを得ない。



(これは、まぎれもなく……僕は、彼女に、恋している……)



「!」


財前ははっと息をのむ。


縁台についていた彼の右手の中指の先に、ふいに柔らかいぬくもりが触れた。


「あ、すみません」


それは羽那の左手の人差し指で……彼女はすまなそうに苦笑して少し手をずらした。だから二人の手は並んで縁台に掛けられている。


「ほら……見てください」


羽那は右手で青い闇にくるりと円を描く。財前は彼女の指先を視線で追う。


「あっ」


思わず、間抜けな声が漏れる。羽那が微かにくすっと笑う気配がする。


「財前さんたら。口、開けっ放し」


くすくすと羽那が笑う。


それでも財前は驚いたまま左右を見上げている。




あちらから。


こちらから。


ふわふわ、


ふわ。


青白い小さな光が、不規則に宙を漂っている。


そしてあるいは夜露に濡れ始める草の上に陰に、


無数に、ほのかな光を放ち始めた。




「すごい数ですね……」


財前が感嘆しながら呟くと、羽那はその傍らでこくりとうなずいた。


「この辺りは普段は人がいないから……川の水は、清らかなままだからでしょうね」


「でも蛍は……青白い光ではなかったような……」


「そうですか? この辺の蛍は……私は種類は詳しくないですけど……青白い光なんですよ」



(そんなものか? 緑か黄色の光が一般的な種類だと思うけど……)



満開の桜が青い闇に浮かび上がり、桜の花の下をふわふわと蛍の幻想的な光が飛び交う、不思議な光景。



羽那は目を細めてその光景を見つめながら言った。

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