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第13話

羽那が、厚口の書道紙に流麗な文字を書いてゆく。


まずは、墨をするところから視線がうるさくない程度に観察してみた。


すごい集中力だ。


彼女はまるで、人知れぬ山奥の静謐な湖のようだ。


ゆっくりと墨をすり、筆を湿らせる。


濃くもなく、薄すぎるでもなく。


するりと弧を描き、力強くまっすぐと伸びたかと思うと微妙に力が抜けてやわらかな弧を描く。



彼女の書きだす文字は、繊細でしかも意思があり、とても美しい。



「これを桜の襖に書きます」


自分のほうに差し出された書道紙を受け取って視線を落とす。なんとなく、いくつかの文字は読み取れる。財前はぼんやりと見入って感心する。


「美しいですね」


「ありがとうございます。次は、雨と蛍と夜です」


「うーん……候補は、ありますか?」


「いくつか見繕ってはみているんですが、今一つ意味が理解できないものがあって」


羽那はやんわりと苦笑した。眉尻が下がって、泣き笑いしているように見える。



「ひとつは……雨ですが、『万葉集』の相聞歌で気になったものが……」





  あしひきの山のしづくに妹待つと


  吾が立ち濡れぬ


  山のしづくに



(きみを待っている間に、山の雫に濡れてしまったよ。あの山の雫に、ね)



「大津皇子が恋人の石川郎女いしかわのいらつめにおくった歌で、彼女のお返しの歌が……」




  吾を待つと


  きみが濡れけむあしひきの


  山のしづくにならましものを



(あなたが私を待って濡れたというその山に雫に、あたしはなりたいものだわ)



「こんな感じです。このしづくとは、雨と判断してもいいのでしょうか?」


「草に置いた露とも、雨ともとれるんじゃないですか?」


財前はその二首をパラパラと本をめくって探し出して解説を読んだ。


「ふーん。うわぁ。彼らは恋人同士だったけど、彼の異母兄弟の草壁皇子と三角関係だったともいわれているんですね」


「大津皇子は健康で美男で聡明で、当時のひとの手による歴史書でもベタ褒めされています。母親同士が姉妹だから、草壁皇子とは従兄弟で異母兄弟でもあるんですね」


「しかも父親は母親たちの叔父ですね。昔の近親婚はややこしい」


「石川郎女はのちに別の人の妻になりますが、若い頃は大津皇子の恋人だったみたいですね。『山の雫に濡れて』あいびきしていたということは、もしかしたら秘密の関係だったのかもしれません」


「大津皇子は……ああ、そうだった。皇位を継ぐ気はないと公言していたのに、結局は謀反の罪を着せられて殺されてしまうんでしたね」


財前は本を読みながらうなずいた。


「わが子を天皇にしたかった皇后が手を回したのかもしれないですね。彼女にとっても大津皇子は実のお姉さんの息子なのに、自分の息子よりも優れた大津が目障りだったのかもしれないですね」


まるで知り合いの話をするようにしゅんとうなだれる羽那に、財前はふ、と微笑みを向けた。


「この石川の郎女という女性は、情熱的な人だったかあるいは恋愛マスターだったのかもしれないですね。『あなたが濡れたという山の雫に私はなりたい』なんて、なんか気持ちに余裕を感じます」


「そうかもしれないですね。書くとすれば二首とも書きたいと思うんですけど。実は、ここに在原業平の歌を使おうと思っていたんです」




  起きもせず寝もせで夜をあかしては


  春のものとて


  ながめくらしつ



(眠れずに夜を明かして、寝不足のまま昼間は春の長雨を眺めながら、ぼんやりとあなたのことを考えて過ごしています)



「『ながめ』が長雨と物思いにふける、のかけ言葉ですね。この歌じゃないけど、昔テストに出た気がする」


「ええ。こちらは意味がそのままで分かりやすいです。口説いていた相手に贈った歌のようですね」


「たしかに、これもいいですね。でも今度は『万葉集』もいいと思います。ちょうど対で二首」


「そうですか? では、雨の歌は、そっちで行ってみます。雫の意見、ありがとうございます」


ぺこり、と羽那は頭を下げた。財前は本を畳の上に置いてぶんぶんと首を横に振った。


「あっ、いえ、お礼を言われるほどではないです」





午前中が何とか過ぎると、昼は羽那がそうめんをゆでてくれた。


あらゆるデジタル機器のない、山の中。


山を渡る涼やかで微かな風と、虫や小鳥の声。時間の感覚がよくわからない。


そうめんを食べた後にひんやりとした縁側に寝転んでいると、眠気に襲われる。


こんなにのんびりと過ごすのは、何年ぶりだろう?


普段は分刻みで動き、常に時間調整を図る。三手先を読み、不測の事態に備えて代替案を考え、準備しておく。副社長に惚れこんで転職したのは自分の意思だし、毎日は充実していて仕事は面白い。やりがいを感じているし、信頼もされている。どうしても仕事優先になっているが、それはそれで満足している。


ただ、こんなふうに時計のない、スマホもPCもタブレットも一日手に取らない生活は、大人になってから初めてかもしれない。




もしもここが現実ではなかったら……



まあ、それでももういいか、とどうでもいいような気になってくる。



あの、相楽花那という女性が、現実に存在しないとしても。今ここで彼女と過ごす時間は、現実だろうが非現実だろうが構わない。一緒に庭の隅の水場で、井戸のポンプで水を汲み上げながらする洗濯は楽しいし、ローテクでアナログな生活も結構楽しめている。


羽那の亡くなった祖父のものだったという着物を借りて着ていると、大正か昭和初期にタイムスリップしたような錯覚に陥ってくる。



つい二日ほど前に知り合ったばかりなのに、もう何年も一緒に暮らしているような不思議な感じがする。


それなのに、一方では彼女のことをまだあまりよく知らない。



あと数日すれば、山を下りる羽那について行き、自分も日常に戻るのだ。



戻った後は……



あれ?



財前は首をかしげた。




「戻る」って、「どこ」に「戻る」んだった?

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