3
第12話
「それは、『新古今』ではないでしょう?」
柔らかく笑む羽那に、財前は手に持った本を膝の上にぽとりと落として顔を赤らめた。
「あっ、いや、その。ちょっと、思い浮かんで……」
あたふたと本を拾い上げ、財前は苦笑した。
羽那はふーんと呟きながら天井を仰ぎ、再び財前を見て微笑んだ。
「なるほど。桜大好き、って感じの歌だけど、もしも桜を誰か好きな人に見立てたら、面白いかもしれないですね」
「実際は……花見に行って詠んだ歌らしいけど、あの在原業平のことだから、もしかしたら桜という名前の気になる女性がいて、色っぽい意味で詠んだのかも?」
「なんか、新しい解釈ですね。桜の儚さをたたえる歌だけど、誰か特定の恋しい人を詠んだとも、取れなくもないですね。すごい。そう思ったら、その歌も悪くないですね。私が見つけた歌は、これです」
羽那は静かに一首をつぶやいた。
ちりぬれば
こかれどしるしなきものを
けふこそ桜
をらばをりてめ
「散ってしまったなら、恋焦がれてももう仕方がないので、散らないいま今日こそは、自分のものにしてしまおう――詠み人知らず、です」
財前は耳が熱くなるのを感じた。桜の花を惜しんだ歌なのに。
「あなたが去ってしまったりほかの人のものになってしまってから好きだったと言っても遅いから、今日こそ告白してしまおう……そんな感じにも取れると思いませんか?」
嬉しそうににっこりと笑む羽那を直視できず、視線を自分の膝に落としたまま財前はこくこくとうなずいた。
「では、業平の歌とその歌で。業平のほうは有名な歌だから、依頼者の家を訪れた日本人にもなじみやすいかもしれないですね。決めた。桜の襖絵には、その二首を書きます!」
財前は呆然とした。困惑もしていた。
ひとはこんなにも突然に、恋に落ちるものなのだろうか?
「——でも、わかるんだよ。理屈じゃないんだ。『この女だ』って、何かが教えてくれるんだよ」
夫人に一目ぼれした副社長が、そう言っていた。
財前は一目惚れなんてしたことはない。自分では決して惚れっぽくはないと思っているし、本当に一目惚れなんてしたことはない。
副社長のような頭の切れる男がそんなことを言うなんて、と少し呆れたけれど。
確かに、副社長夫人は素敵な女性だ。でも、彼女に一目惚れをしたと副社長から聞いても財前はぴんと来なかった。
それなのに。
いま、彼は自分でもおおいに戸惑っている。
隣で穏やかに微笑む、知り合って二日めの女性。名前と職業くらいしか知らない。ましてや、現実に存在するのかさえも怪しい。
それなのに。
財前はまたそっと羽那の横顔を盗み見た。
この女だ。
その思いはすでに引っこ抜くことができない強い根を、心の中に張り巡らせてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます