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第11話

(そうだ……あんなに腫れていて激痛で、絶対に骨折してたと思った左足首は、川を渡ってあの子供たちの家に行った時にはもう完治していたんだ。かなりの高さから車ごと土砂に流されたのに足の骨折だけで生きていたのも、不自然じゃないか?)



がくがく。


手が震えてくる。


動悸が激しくなる。




あの女の子は、財前の名前を知っていた。山奥で迷い込んで偶然に遭った子供・・・・・・・・・・・・・・・ではない。絶対に違う。



(僕は……死んだのか?)



まさか、ここはあの世であなたはこちら・・・の住人ですかなんて……羽那に訊けない。



(うーん。でも待てよ? 確かあの子供たちの家では喉が渇いたような気がしたけど実際には喉は乾いていなかったし、おなかも減らなかった。でも、この家に来た時はホントにおなかが減ってたんだよな……)



すなわち。



(まだ死んでないかも?)



でもまあ、もしも死んでいたとすれば、考えても生き返ることはできないのだから、考えるだけ無駄だ。


財前は普段から思い切りだけはいい。元カノの何マタもの浮気を知った時にも、一分もかからずに即決即断して迷うことなく別れたのだ。



(それならもう、なるようになればいい)



もはや不安はどこにもなかった。


思い込みは激しいが、切り替えも素早い。


財前直哉は、そういう男だった。






「……」


翌朝。


朝食の膳を見て、財前は呆然としていた。




よく副社長が財前に妻の作るメシ自慢をしているのだが、夫人は洋食屋の厨房を遊び場にして育ち、イタリアでも修行していたし料理教室の講師も務めていたのだから、料理がうまいのは当然のことだと思っていた。


浮気者の元カノはメシを作るような女ではなかったし、学生時代の元カノも電子レンジと調理ばさみとビニール袋ですべての料理を済ませようとしていたような稀有なタイプだったから、「カノジョ」の「普通の」手料理は食べたことがなかった。


浮気女と別れてからは仕事が忙しいし(そういえば、事情を知らない人には仕事が忙しすぎて彼女に振られたということにしておいてやったんだった)、新しい彼女を作るタイミングもなかった。


実家の母親や姉の料理以外、血のつながらない女の手料理と言えば兄嫁のくらいだった。


そして副社長の家に招かれれば、夫人の手料理くらいしか(いや、「しか」というには失礼すぎるほど旨いメシだが)、財前はお呼ばれしたことがなかったのだ。




それが。



不思議な出来事のあとで自分の生死に無自覚だと言うのに、昨日知り合った若い女性がひとりでいる山奥の小さな家にお世話になり、目の前の食卓を目にして感動に打ち震えている。



なんて……



なんて、素敵な光景なのか。




冬場には掘りごたつになると昨夜羽那が言っていたちゃぶ台には、魚の干物を焼いたもの、ご飯とみそ汁、卵焼き、キュウリと大根の浅漬けやコールスローサラダが並べられている。


箸置きに鎮座する箸。味付け海苔や塩昆布まである。



「冷蔵庫はないんじゃなかったんですか?」


財前の質問に、羽那はやんわりと苦笑して答えた。


「家の裏に山水が湧き出た水場があるので、野菜やくだもの、飲み物はそこに冷やしてあるんです」




はぁ……


財前は至福のため息をついた。


やっぱりここは、あの世なのかもしれない。




羽那は今日も和服姿だ。


薄い紫の地に大柄な白百合があしらわれた麻の着物。黒と濃い紫の市松模様の帯に、赤い帯どめ。


和服を着た美しい人が作った朝ご飯。


たとえ死んでいたとしてももうどうでもいい。




これまたレトロな、モザイクタイルの長方形の流しに取り付けられた井戸のポンプを押し下げて、財前は食器洗いに精を出す。


おいしい朝ご飯のお礼に買って出たのだ。


羽那は縁側で柱に寄りかかって和歌の本を読んでいる。


斜めに足をくずし、しどけなく座り本を読みふける様はとてもなまめかしくもあり、この世のものとは思えないくらい儚げにも見える。



(見ろ、片瀬。こんな女性は確かに存在するんだ!)



心の中で後輩にドヤ台詞をつぶやいても何もならないが。



朝の光が透き通る色素の薄いやわらかそうな髪は、うなじのあたりで緩くねじ上げて箸みたいなかんざしで留められている。


羽那の周りは、まるでタイムスリップしたかのように古風な雰囲気に包まれている。




ひらり、ひら。



彼女の隣に座り庭を眺めると、どこからともなく薄紅の花びらが降り降りてくる。



(今は、七月だぞ?)



それは桜の花びらだ。


でもまぁ、それもいいかもしれない。朝の透き通った涼やかな空気の中、花は羽那の髪に肩に膝に、ふるふると降りかかる。



『新古今和歌集』の現代語訳の本を読んでいる……ふりをしながら、財前は羽那を時々盗み見る。



(なんて、美しいんだ……)



たとえば、副社長夫人のような華やかな美女ではない。別れた浮気女のようなあざとさもない。片瀬のような近づきがたい知的な感じの美人でもない。


淡雪のような、桜の花のような、繊細な美しさ。





  世の中に


  絶えてさくらのなかりせば


  春の心は


  のどけからまし



在原業平の歌が、ふと思い浮かぶ。




「もしもこの世に桜の花など存在しなければ、春にこんなにも心が乱れることなど、ないだろうに」


思わず現代語訳をつぶやくと、羽那が財前を見てふ、と微笑んだ。



その瞬間、財前ははっと息を止めた。




すとん。




何かが、どこかに落ちて、ぴたりとふさがった。



ああ。




恋に、落ちてしまった。





財前は呼吸を忘れたように、苦し気にぽかんと口を開けた。

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