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第9話

「どうしてうちの前で倒れていたのかはそのうち聞くとして……とりあえず、立てますか? あそこに、座りましょう」


彼女は縁側を指さした。立ち上がって五歩ほど歩けばたどり着けるだろう。


「あっ、気を付けて……ゆっくりで、大丈夫ですから」


立ち上がろうとするとめまいにおそわれた。前のめりになる体を彼女が抑えてくれた。


ふわりと、ホワイトティーのやわらかな香りが財前の鼻孔をくすぐった。




「……」


財前は眉根を寄せる。


その小さな家は、二人の子供たちがいたあの家と同じように見える。ただこちらの家のほうが幾分、歳月を経ているようにみえるが……


それに、気のせいだろうか?


小川のうねりが、逆方向だったような気がする。



「あの……ここは、あなたの家でしょうか……?」


縁側に座るのを手伝ってもらい柱に寄りかかると、水をコップに入れて運んできてくれた女性に財前は遠慮がちに訊ねた。


「はい、そうです。とはいっても、正確には私の祖父のものですが」


「あなたのおじいさまとは、財前多加彦氏ですか?」



確か、子供はいなかったはずだ。ならば当然、孫もいないはずだが……


女性は首を横に振った。


「いいえ。祖父の名前は相楽流心さがらりゅうしんといいました」


「いいまし、た?」


「もうだいぶ前に亡くなったんです。8年くらいになります」


「そうですか……」



手渡された水を一気に半分ほど飲み干すと、財前はまだ名乗っていないことと、礼も述べていないことに気が付いた。


「あっ、失意礼しました。介抱していただいて、ありがとうございました。僕は財前直哉と申します」


「いいえ! 介抱だなんて! どうしたものか、よくわからなくてただ見ているしかできなかったのですが……財前さん、ですね」


「はい。怪しいものではありません。外食産業の企業の会社員です」


「怪しいなんて、思ってないですよ。私は相楽羽那はなと申します」



おなかがぐぅぅぅと鳴って、財前は真っ赤になって苦笑した。


羽那は「大したものはないですが、お昼ご一緒にいかがですか」と笑いながら言った。



それから財前は家の中に招かれ、羽那の作ったチャーハンをごちそうになった。


そして自分は多加彦氏の別邸に向かう途中に土砂崩れに遭って押し流され、たどり着いた家の子供たちに蔵の中の衣装箱に突き飛ばされて気づいたら羽那の家の庭にいたことを話した。


「嘘みたいな展開で、頭がおかしいと思われても否定できないですが……自分でもよくわからなくて」


「うーん。もしかして、土砂に流されたときにどこかに頭を打ってしまって、混乱したのかもしれないですね。でもこの辺りでは、雷雨も土砂崩れも起きていないですが」


「キツネかタヌキに化かされたのかもしれません」


「ふふふ。そうかもしれませんね。この辺りにはそんな昔話もいくつかあるみたいですから。でも……」


羽那は財前のめちゃくちゃな話にも相槌を打ちながらよく聴いて、そして優しい笑顔を向けてくれた。


「ご無事でよかったですね。左足も、今は平気みたいですし」




彼女は自分は駆け出しの書家だと言った。


なるほど、なんとなく雰囲気は掴めた。


この家は亡くなった祖父の所有で彼女が受け継いで管理している。時々、大掛かりな仕事の時には作業場にしているらしい。


「書家とは、こう、筆と墨で字を書く、そのプロということですか?」


財前は右手で宙に筆を払うジェスチャーをしてみせた。


羽那はくすっと笑ってこくこくとうなずいた。


「はい」


食事の後、羽那は自分の作品だと言って壁に掛けられた掛け軸やふすまを見せてくれた。


正直、崩し字の読めない財前には何が書かれているのかわからないものが多いが、それらが文字だと言われれば、流麗で美しいということはなんとなく理解できる。



羽那は淡い苦笑を浮かべた。


「今、海外の富豪からの依頼で古典から恋の歌を六首、襖に書かないといけないのですが。歌に指定がなくて、自分で選ばないといけないのです」


「古典というと、小野小町とか和泉式部とかですか?」


「ええ。襖にはすでにそれぞれ、桜、蛍、月夜、雨がすでに描かれているんです。それらにふさわしい歌を選んで書かないと」


そのためにこの作業場にこもって、『古今集』、『新古今和歌集』、『和泉式部集』、『小倉百人一首』などもろもろの歌集をもう三週間も吟味しているらしい。



いくつかめぼしいものはピックアップできても、歌の解釈がうまくいかないのだという。


羽那は目を伏せて小さなため息をついた。




「たぶん……私に問題があるみたいです」

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