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第8話

それは何というか、大昔の衣装箱に見えた。


木製に……アンティークの箪笥なんかについている引手金具や外蝶番が付けられた、豪華な古い箱。子供二人がゆうに入れそうな大きさだ。



「はやくはやく!」


せかされるままに衣装箱を覗き込む、と、背後から思い切り背中をどんと押されて前のめりになり、頭を箱の中に突っ込んでしまった。


「はやく、あっち・・・にもどるんだよ? じゃいじぇんしゃん」


「えっ? はいっ? だからさ、どうして僕の名前——う、わぁぁ?!」




伸ばした腕までもが箱の中に入る。そこに手をつこうとしてみたが、何にも触れない。おかしい。


箱の底が……無い!




子どもたちに左右の足を持ち上げられ、ついに体全部が箱の中にさかさまに入ってしまった。



そして財前は暗闇の中に落ちて行った。


必死で振り仰ぐと、はるか上空に箱を覗き込む二人の子供の顔が小さく見えた。それらは明らかに遠ざかってゆく。


いや……彼自身が落下しているのだ。



「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っ‼」


財前の絶叫が底なしの暗闇に響く。




「また会うのを楽しみにしてるよ!」


「またねぇ~」




二人の子供たちの無邪気な声が遠ざかって行った。







――つっこみたいことは山ほどあったのに。





一体、あれは「どこ」だったのか。そしてどうして、蔵の中の衣装箱の中に「落ちて」いっているのか?





さっきのは、天国なのか、異世界なのか。





思考が稼働拒否した無意味な状態で考え続けようとし続けながら、財前はひたすら絶叫し続けた。



あの子供たちは一体、誰なんだろう?



どこかとても懐かしくて、かなり見覚えがある。


一方で、初めて会った気もする。


でも女の子は財前のことを「じゃいじぇんしゃん」と呼んでいた。あの口調も、なんか知っているような気がしてならない。




「川を渡ってはいけないのに」




あの男の子の声が頭の中にひそひそと響く。




「ひぃちゃんにおこられちゃうから、はやくあっちにもどそうよ」




女の子の声も響く。


ひぃちゃんとは、誰だ? あの女の子の友達だと言っていたけれど、なぜ財前が「こちら側」に来てしまうとそのひぃちゃんに怒られないといけないのか。


ひぃちゃん……思い当たらない。



それにしてもあの子供たち……


あの二人は、誰だったんだ?





うん……



やさしい声。


やわらかなトーンの……小川のせせらぎのような、心地よい声。


ひそひそと、静かに降り注いでくる。


あ、春の日差しにも似てるのかもしれないな。



「——か?」


「……?」


「——……ですか? わかりますか?」


とんとんと、何かが右肩を軽く叩く。


耳元で女性の声がする。


天使か?


とうとう僕は、箱の中の底なしの闇に落ちて行って、死んでしまったのか?


くそ。


片瀬。


僕は70歳にもなれずにあの世に来てしまったらしい。


てかこんな時にさえ、別れを惜しみたい愛するひとではなくて、年をとっても独り身だったら偽装結婚してシェアハウスで一緒に暮らそうなんて冗談を言った後輩ぐらいしか思い浮かばないなんて。



財前直哉。32にもなってカノジョもいないと母親に心配されるほど、情けない男のまま死ぬなんて。ああ、思い返せば地味で本当に情けない一生だったな。


――って、葬式ではいろんな人に哀れまれるんだろうな。



甥っ子たちはともかくとして、姪っ子は辛辣なことを言いそうだ。女は子供でも容赦ないからな。


吉川君にも、同情されるかも。


「今カノジョいないんだよね? 誰か紹介しよっか?」と言われたときに、へんなプライドなんかもたずに素直に紹介してもらえばよかったかな?


いや、でも……麻希のような性悪な女だったら?


やっぱり、紹介とかじゃなくて、自分で見つけたいよなぁ……




「あの……」


途方に暮れて、泣きそうな弱々しい声。




はっ、と目を開けると、驚いた若い女性の顔が自分を覗き込んでいるのが見えた。


「あっ、目を覚ましたんですね? 大丈夫ですか?」


ほっと、安堵した声。


「あの……?」


かすれた声が喉に絡まる。


背中の感触からして、自分は草の上に寝ているとわかる。青臭い香りも感じる。


頭が少し高くなっているのは……たぶん彼女がタオルを枕代わりに差し入れてくれているから。



「うちの庭先に倒れていたんです。すみません、私一人ではお運びすることもできず、そのまま庭先なのですが……」


ゆっくりと上半身を起こすと、彼女は背中を支えてくれた。


白地に黒の大柄な矢絣模様の単衣の着物に白っぽい帯、赤い帯締めを締めている。艶やかな黒髪は緩やかに後ろで結って赤い石……瑪瑙メノウだろうか? 玉かんざしを挿している。


白く小さな輪郭。いくぶん垂れたふせがちのこげ茶色の大きな瞳。優美な曲線を描く鼻筋に透き通った赤い唇。


派手な美しさではないが……なんというか、儚げな美しさ。




(なんて美しいんだ……)




「もしかして、頭を打ったのかしら? どこにも傷もこぶもなかったのだけど……あの、私の言ってること、わかりますか?」


彼女に見とれてぽかんと口を開けたまま、財前はこくりとうなずいた。

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