天国なのか、異世界なのか?

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第6話

地獄に落ちるとは、まさにこのことだったのか。




はっ、と目を覚ますと、ぐちゃぐちゃの車内にいた。


シートベルトのおかげで助かったのかもしれない。土砂で覆われていたフロントガラスは雨に洗われてかろうじて外が見える。そこからまだぼんやりする頭で判断してみるに、どうやら土砂とともに押し流されて、平らなところにとまったようだっだった。



耳を澄ますと、川がすぐ近くにあるようだ。ちょろちょろと水音が聞こえる。


車内はいろいろなものが散乱しているが、ガラスが割れて土砂が入ってくることはなかったようだ。汚れはない。


「母さん、怒るだろうな……」


まず考えたのは、そんなことだった。


この車、まだ最初の車検も来てないって言ってたな。泥と砂利と岩のかけら、木の枝なんかで傷だらけだろうし、エンジンにも泥が入ってもう廃車かもしれない。


でもまあ……土砂に吞まれることなく、ふんわりと上に乗ったまま崖下に滑り落ちたようだ。運がよかったみたいだ。


そろそろと右手を伸ばし、シートベルトを外す。



「うっ……!」


胸が、痛い。


シートとエアバッグの間に挟まれている。何がどうなって今に至るのか、全く記憶にない。


もしかしたら、転落中は気を失っていたのかもしれなかった。


いずれにせよ、奇跡的に助かった。


エアバッグをどかしてドアを開けてみる。開いた。


マウンテンパーカ―のポケットからスマホを出してみると、時刻は11時5分前。待避所に車をとめてから1時間と少し経っていた。電波は……もちろん圏外だ。



「いたたたた……」


降りようと体をひねると、意識が遠のくほどの痛みを左足に感じる。胸の痛みに耐えながら足を上げて見てみると、足首がありえない方向に曲がって3倍くらいに膨れ上がっていた。詳しくはわからないが、落下の途中に変にひねってアクセルペダルに挟まったか何かで、骨折したのかもしれない。



外はまだ雨が降っている。先ほどの豪雨よりはかなりましになっている。


ごつごつとした大きめの石ばかりの河原だ。


川は3メートルほどの幅で、水際は浅そうだが大雨を含んで流れが速い。あたりを見回すと、四方は山が見えるのみ。



「……!」


はっと目を見開く。


上流の100メートルほど先、対岸に小さな明かりが見えた。


昼間だというのに、あたりは薄暗い。明かりが見えたのは、これもまた幸運と言えた。


(とりあえず、あそこには人がいそうだ。電話でも無線でも、あそこに行って借りよう)


財前は足と胸の痛みに顔をしかめながら車内に上半身を入れて、バックパックに必要なものを詰めた。車のすぐ後ろに広がる土砂の中から杖にちょうど良い木の枝を拾い上げ、川の水で洗った。



河原はごつごつの岩でかなり歩きづらいが、仕方がない。フードをかぶり、明かりを目指す。


歩くたびに左足に激痛が走るが、ひたすら明かりを目指した。


それは文字通り、彼にとってはひとすじの希望の光だった。


「うわっ!」


空にふたたびひび割れのような閃光が走った。1,2,3……19秒。轟音が地面を揺らす。今度は遠くに落雷したようだ。


財前は雨の中、激痛に歯を食いしばりながらひたすら悪路を前に進んだ。





(あれ……?)



いつの間にか、雨はやんでいた。


川の水も増水していないし、流れも緩やかになっている。頭上を見上げるとまだ鉛色の雲が厚く立ち込めてはいるものの、稲光も雷鳴もない。



荒削りの岩がごろごろしていた河原はいつ途切れたのか両側がうっそうと茂る夏草で覆われ、川幅も1メートルほどに狭まっている。川底が見えるほどの浅く清らかな流れ。


「いつの間にこうなったんだ?」


振り返ってみても、もうそこには財前が苦労して歩いてきた景色はない。




気づくと対岸のほんの3メートルほど先に、一軒の古めかしい瀟洒な庵風の家があった。明かりは、そこから漏れてきている。


「うーん……何かに化かされてるのかな……」


財前は首をひねる。


すでに疲労困憊して、思考は漫然としていた。そんなとき彼はいつも前向きにとらえることにしている。




(まあ、いいか……とりあえず足の手当てと、電話を借りよう)




川幅がさらに細くなっていたあたりで、財前はひょいとそれをまたいで対岸へ足を踏み入れた。




「あー!」


「あああ‼」




突然、どこからか子供のような叫び声が聞こえてきたので、彼は驚いてびくりと身をすくめた。


辺りを見回すと、小さな家の手前にある大きな大きな桜の木の陰から、二人の子供が彼を見つめていた。



小学校1,2年生くらいの男の子と、4歳くらいの女の子。男の子は白シャツに黒のハーフパンツとジャケット、女の子は桜の模様の赤い着物姿。怜悧そうなかわいい顔立ちはよく似ているので、兄妹なのかもしれない。



(うん? この子たち、どこかで会ったことがあったっけ? なんだか懐かしい感じがするな……)



「まずいな。また・・渡ってきちゃったよ!」


「どうしてこっち側に来ちゃうかな?!」


二人の子供はどうやら財前を非難しているようだ。



「……渡ってはいけなかったのかな?」


彼は眉根を寄せる二人の子供に話しかけた。


二人は驚きに目を丸くする。


「えっ、嘘! 僕たちのことが見えるみたい!」


「ホントだ! こっちみてる!」


「……あの。きみたちは、この家の子供たち? 誰か、大人はいるかな? ちょっと電話をお借りしたいんだけど」



子どもたちは太い幹の陰から頭だけを出して、ひそひそと内緒話をしている。


「あの……聞いてる?」


いや、聞いていない。彼らは深刻な表情で内緒話を続けている。


「ちょっと……」


財前が草の中を一歩前に踏み出すと、二人は驚きの表情で財前を見つめた。



そして、兄らしき男の子が幹の陰から姿を現して財前に言った。

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