2

第5話

祖父の従弟は、財前多加彦たかひこといった。



国家公務員を引退した後、趣味で始めた民俗学に没頭するあまり、山奥の一軒家に移り住んだ。


彼の妻は、そんな誰も人がいないような寂しいところには住みたくないと街中に残ったそうだ。二人には子供がいなかった。


多加彦氏はひとり気ままに山奥の一軒家で悠々自適の研究三昧の余生を送っていたらしい。


円満別居というか、別居婚とでもいうか。盆暮れ正月には多加彦氏が街の本宅に帰ってくる。そういう生活が20年ほど続いていたらしい。




父は何度か会ったことがあると言っていた。小さなころはよくお小遣いをくれたと。


キャリア官僚だった多加彦氏は、子供がいない分、従兄の息子である財前の父をとてもかわいがったという。



今回、彼は山奥の一軒家で意識を失って倒れていたところを、近隣の村(といってもひと山むこう側)の郵便配達員に発見されてふもとの大きな病院に運ばれ、かけつけた奥さんに見守られながら三日後に安らかに息を引き取ったそうだ。


老衰だったらしいので本人的にも本望だったろうと、一軒家に向かう前に寄った街中の本宅で奥さんが言った。


真新しい仏壇に飾られた遺影は、眼鏡をかけた痩せた老人がにこにこと笑顔で写っていた。なんとなく、亡くなった祖父に目元が似てるなと財前は思った。




次の週の金曜日の仕事上がりに実家へ向かい、土曜の明け方に母親のプリウスを借りて出かけて来た。



朝食をごちそうになり家と蔵のカギを預かって山へ向かう。




「まぁ、そんなことだろうとは思ってたけど……」


カーナビをセットする。と……目的地までの道が出ない。


奥さんに聞いた山道の途中の目印と描いてもらった地図で頑張るしかない。運よく人がいれば道を訊けるかもしれない。とにかく、目標は昼までにたどり着くことだ。


午後には蔵の鍵を開けて入っているものをリストアップして、夜にはナンバリングしながら写真を撮りリストと照らし合わせ、明日の朝はそれらを蔵に戻して鍵をかけ、昼前には出発するつもりだ。




――しかし、そううまくいかないのが「予定」というものらしい。




その日はまるで数年分の運の悪さがまとまってやってきたような最悪の日になった。




住宅街のはずれの一車線道路で、突然、一匹の小さな黒猫が飛び出してきた。だがそんなのはまだほんの序の口だった。


郊外ではハクビシンが道路のど真ん中に轢死していて、カラスが集団でそれに群がっていた。クラクションを鳴らすと飛び立ったが、食い散らかされた無残な死体をもろに見てしまった。


途中で寄った周辺で最後のコンビニではお弁当が売り切れていて、パンもあまり好きではないものしか残っていなかった。


そのうえ、山道を登り始めるとなんだか雲行きが怪しくなってきて、遠くで雷鳴がとどろき始めた。


スマホで雨雲レーダーをチェックしようとすると電波がないことに気づいたし、いきなり雨まで降ってきた。しかもそれは振り出してほんの数分で前が見えないほどの土砂降りになった。


不慣れな山道での大雨は危険でしかない。下手に動かないほうがいいと判断して、ちょうど見えた待避所に一時的に車をとめることにした。普通車が一台分何とか入るほどのそれは、狭くなってきた山道で対向車がすれ違うためにところどころに設置されているようだ。



「なんだよ……ついてないな……」



フロントガラスを滝のように流れて行く激しい雨を見ながら、財前はため息をついた。これでは到着は昼過ぎになるかもしれない。いや、そもそも、今日の午前中に雨が降るなんて、どの天気予報も予想していなかったはずだ。


昼間とは思えない暗さ。瀑布の真下のようなフロントガラスの向こうは、メタリックグレーの重苦しい空。




「う……わっ!」


突然、ほぼ垂直に閃光が走り、空が真っ二つに割れた。3秒も経たないうちに今度は轟音が響き渡り、地面が振動した。


「ひっ、光は秒速340mでかける3秒もしない……なんてっ、計算するまでもなくすぐ近くに落ちたじゃないかっ!」


地鳴り。そして地響き。人間の本能だろうか? 頭の中に、「ヤバイ!」という文字が大きく浮かぶ。



財前は恐怖でパニックに陥っていた。過呼吸。息が、で、き、ない。


頭の中は完全に真っ白になる。



「……‼」


声にならない悲鳴をあげようとした瞬間、粘着性のある重い何か塊がどぷっとフロントガラスを覆った。そして車がすさまじい力によってふわりと横にスライドしてゆく。


上下左右の間隔が無くなる。もしかしたら、車ごと一回転したのかもしれない。


ずるずると下方に落下して行っている感じもする。


いままでつづら折りの道をぐるぐると上がってきた分、斜面を滑り落ちている、のか?




もうだめだ!




――最期の最期に、頭に浮かんだのはそれだけだった。


こういうときって、今までの人生が走馬灯のように流れるんじゃなかったのか?


結構、あっけないものだな。


こんな突然に、命を失うことになるだなんて。


あーあ。


まじか。




財前の乗った車は土砂に押し流されて、ガードレールを越え、崖の下に流されながら落ちて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る