予兆

1

第4話

がくん、と頭が前に落ちて、羽那はなはまどろみの淵からいきなり戻された。



(また寝ちゃってた……)



いねむりなんかしている時間も惜しいのに。



はあ、と深いため息をつく。




このところずっと、同じような夢ばかり見る。


疲れている……のは否定できない。


それから、最近受けた仕事の依頼に関係しているとも思っている。


あまりにも心配しすぎるから、「あんな夢」を繰り返し見てしまうのかもしれない。




「あんな夢」……



現実にはあり得ない世界。




夜。


そこは森の中だ。


青い満月が遠く南中から木々を照らしている。


ぐるりと辺りを見回すと、山桜の木々ばかりに囲まれていて、満開の花々が月の光に青ざめて見える。


その中でもひときわ大きな桜の古木が開けた草地の中心に一本だけ生えて、満開の花をまとった枝々を所狭しと広げている。


煌々と照らす月の光を浴びて、花々は妖しくそれら自体が発光しているかのように青い闇に浮かび上がって見える。



ちらりちらりと、牡丹雪かと見まごう花びらが、風もないのに落ちてくる。


羽那は黒地に銀の繊細な流水模様の上に桜の花びらが舞う見たこともないような美しい着物を着て、金糸銀糸を織り交ぜた絢爛豪華な帯を締めている。


そんな姿なのに、なぜか裸足のままだ。




ふわり。


ふわり……




桜の花びらかと思い手を差し伸べると、それは風もないのにゆっくりと宙に舞い上がってゆく。


青白い光。


それは……無数の蛍だ。




なぜ満開の桜の下に蛍が飛ぶのか。


羽那にはよくわからない。夢だから、何でもありなのだろうと自分を納得させる。




とにかく、美しい。


青い月も、青冷めた満開の桜の花々も、青く光る無数に飛び交う蛍たちも。





(青白い光を放つ蛍なんて、いたかしら? オレンジとか、緑じゃなかった?)




蛍や花びらをうっとりと目で追っていると、やがて古木の大樹の満開の桜の下に、人の気配を感じる。




(また……あのひとね……)




いつも同じ、夢の中に出てくるひと。


同じ年頃の……ひとりの男性だ。


細身で長身で、真っ白な着物を着ている。


髪は短くて、特別に美形というわけではないが、整った優し気な好ましい顔立ちをしている。髪型や雰囲気を見る限り、昔の人というわけではないようだけど……



彼も、いつも裸足だ。



あなたは、だれ?



話しかけようとするけど、喉の奥に何かが詰まっているような感じがして、声が出てこない。


もの言いたげな表情のまま5メートルほど離れたところに佇んで見つめていると、彼がこちらに気づいて振り返る。


目が少し、見開かれる。そして安堵したような微かな笑みが浮かぶ。


すると羽那は、はっと息を止める。


いつも同じ夢なのに、この瞬間だけは毎回慣れない。


その淡い微笑に思わず息をするのも忘れて見とれてしまう。



遇ったこともないのに、懐かしい気もする。



あなたは、だれなの?




彼は左の腕を少し上げて、袂に右手を浅く入れる。すると、彼の着物の袖から、青白く光る蛍が桜吹雪の中にさまよい出てくるのだ。



もっと近づきたいのに。


一歩も前に動けない。



あまりにも、もどかしい。


あなたは、だれ?



彼は答えてはくれない。



苦しくて苦しくて、胸がぎゅううと締め付けられる。



おしえて。


あなたは、だれなの?





――そしていつも、そこで目が覚めるのだ。





「やだ、羽那。こんな時間に昼寝なんてしちゃ、また夜眠れなくなっちゃうよ?」


従姉の弥生やよいが居間の入り口に立ち、ソファでぼんやりしていた羽那に声をかける。彼女は今を通り過ぎて奥のキッチンまで行くと、冷蔵庫から麦茶を一杯、小さめのコップに入れて持ってきてくれた。


「ありがと、弥生ねえ。合同展覧会の準備で疲れが出てきたかな」


「それよりもふすまの依頼のほうがストレスになってるんじゃないの? あんたの苦手な分野だし」


「うん、そうかもしれないね。ああ、それもあったんだった……」


麦茶を一口飲んで、羽那は力なく言った。


「それにまた、あの夢を見ちゃったから……」


「えっ? ほんの15分くらいよ? それなのに、いつもの夢を見ちゃったわけ?」


「15分くらいだったのか……そうね、見ちゃったの」


「その人……実在するかな?」




弥生は羽那の隣に座り、好奇心に満ちた目を向けてきた。羽那は麦茶をテーブルに置いて苦笑しながら首を横に振った。


「さあね。実在したらしたでびっくりするけど」


顔にかかる髪をかき上げると、部屋中に書き散らかした半切はんせつや八つ切りの書道紙を見て羽那はまたため息をついた。それらは夕日を浴びて、乾いた墨汁の流麗な文字が艶やかに光って見える。


ひとが見れば美しいと賞賛するだろう。だが羽那にしてみればどれもこれもただの反故ほごだ。


「でも、何度も見るのにはきっと何か、特別な意味があるのかもね……」


スランプ、というやつなのかもしれない。


いや、「あの依頼」が、難しいのかもしれない。



やっと実力が認められ始めた若手の書家である彼女に、外国の富豪からの依頼が来た。


彼が新築する豪邸のなかの日本風の「トコノマ」の6本の襖に各一首ずつ、古典から恋の歌を書くこと。歌の選出は任せる、というもの。


「頑張ってよ、羽那。成功すればその手の仕事が彼のコネでたくさん舞い込むわ。なんとしても、やり遂げてよね!」


わかってはいるけれど……まだ、イメージが、わかない。




(しっかりしないとね……)




羽那はまた、ため息をついた。

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