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第3話

杉浦麻希。


財前の元カノにして、同じ総務部の片瀬の友人。財前と付き合っていながらほかにも社内の二人の男と付き合い、その中の誰でもない、取引先の営業マンと結婚して退職した。財前が29歳の時だ。


「しかし、どうしてだろう? 先輩は顔も性格も悪くない。むしろ一般的にはイケメンの部類だよね。賭け事はしないしタバコも吸わない。おそらく、極端な変態でもないだろうし? あの副社長のそばにいるから地味に見えるし……しいて言えば色気がないけど、女好きするほうだと思うんだけど……どうして彼女ができないんだろうね?」


片瀬にまじまじと見つめられて指摘され、財前はネクタイを緩めた後に両手で左胸を抑えた。


「ひどいな。褒めてるようでディスってる。今日は副社長に理想が高すぎるって言われたし」


「たしかに今時、物静かで穏やかで優し気な女なんているわけないでしょ。ウソくさ。あとなんだっけ、言わなくてもわかりあえる? そんなわけないわ。言わなきゃわかんないっつーの」




へっ、と笑う片瀬の皿に焼けた肉を置きながら、財前はお返しにふん、と鼻で笑った。


「まったく、情緒のかけらもないね、片瀬は。そんなきみがいつどんな男を連れてきて紹介してくれるのか楽しみで仕方がないよ」


「あー。一生ありえないと思うわ。私は結婚なんてしないし、男にかまけている時間なんかもったいないもの」


「同じことを言っていた料理教室の愛莉先生もこの前結婚したよ」


「わ・た・し・は! 絶対に、死んでも、ありえないから。他人と関係を築くとか、無理無理」


「その考えが変わっても変わらなくても片瀬の意思を尊重するよ。70歳になってもお互い独りだったら、偽装結婚してシェアハウスで一緒に暮らそう」


「はぁ?! そのくらいまで腐れ縁続けるつもり? てか、男のほうが寿命短いのに財前さんのほうが5歳も上でしょ? その頃にはもうあの世にいるかもしれないのに。いや、偽装結婚して遺産をもらうのはいい考えかな?」


「うっ……そうならないように僕は先に結婚するよ」




「はいはい。せいぜい頑張ってください。なんか、行ったことないようなところにでも出かけてみたらいいでしょ。ためしにはい、これ。あげる」


片瀬は出勤用のトートバッグから一枚のチケットを取り出した。


「なに? 展覧会?」


「そう。若手の書家数人による展覧会。うちの会社、スポンサーのひとつなの。なんか出会いがあるかもよ?」


「こういうところはさぁ、そういうこと期待していくようなところじゃないよ。ふうん、でもたまにはいいかも。ありがとう、行ってみるよ」


「あー、あのね、行ったら400字ぐらいの感想を書いてほしいの」


「……やっぱりな。それを自分の仕事として提出する気なんだろう」


「ははは。いいでしょ! よろしく!」




財前はその時、もらったチケットを財布に入れたことは覚えていた。


でも入れたことをつい、忘れてしまった。





23時05分。


マンションのドアを開けて靴を脱ぐと、緩めておいたネクタイを外しながらふらふらとソファに倒れこんだ。


コンビニで買ってきた水のボトルを開封して、一気に三分の一ほどを飲み干す。


スマホがブーブーと鳴って、発信先を見て彼はため息をついた。


できることならば、出たくはない。でも仕方がないので出る。




「はい」


彼の言葉にかぶさるように、耳慣れた母のハスキーな太い声がすぐに鼓膜に届く。


「やっと出たね、ナオ。もう夜中近くだけど。まさかまた仕事してたんじゃないでしょうね?」


「ちがう。飲みに行ってきたんだ」


「彼女と?」


「いや、後輩と」


はぁ、とため息。


「恋人もいないのに後輩と飲み歩いてどうするの?」


「それとこれとは別だ」


「まったく……せっかくいい顔に産んであげたのに、すこしも生かしてないじゃないか」


「……金曜の夜中に嫌味を言うために電話してきたわけ?」


「私もそんな暇人じゃないよ。あんたに、お願いがあるのよ」


「なに?」




「おじいちゃんの従弟が亡くなったのよ。ちょっと変わった人でね。奥さんはいるんだけど、公務員を退職した後に山奥の一軒家に移り住んで、そこで趣味の民俗学を研究していたら、論文が認められて学者になった人よ。その山奥の家の蔵の遺品の目録を作って来てほしいの」


「はぁ? なんでまた僕が?」


「お父さんが今ぎっくり腰なの。私はお父さんの世話と孫たちの世話があるから家を離れられないし、燈子とうこちゃんも小百合も運転できないでしょ? そしたらあんたしかいないじゃない」


燈子は兄嫁で、小百合は財前の姉である。ちなみに兄は現在、海外に単身赴任中だ。姉の小百合はシングルマザーで、実家近くのアパートで10歳の息子を育てている。母は姉の子供と兄の8歳の娘と7歳の息子の面倒を見ていた。兄嫁は小学校教師をしている。




「いやだからさ、それで何でうちがそんなことをしなきゃならないって?」


「おじいちゃんのたった一人の従弟で、子供がいなかったのよ。おじいちゃんの兄弟で残っている親戚はみんな遠方だから、動けるのはうちだけなの。本来ならお父さんかお兄ちゃんが行くといいけど、できないからね。だからあんたなの。大企業の副社長秘書だし、事務仕事は得意でしょ?」


「……」


「それにあんたはおじいちゃん子だったから。おじいちゃんの従弟のためにあんたが行ってくれたら、おじいちゃんもあの世で喜んでくれるでしょうよ」




(これは……絶対に行けということか)




財前は母の絶対的な口調に絶望を感じた。




金曜日の真夜中近く。


一日の仕事とそのあとに飲んだ疲れで、彼の思考はほとんど鈍っていて逆らう気は微塵も起きなかった。




「来週末。行って来てちょうだいね。詳しいこととかは明日メールするから」



母との通話を終えると、大津波のようにどっと疲労が覆いかぶさってきた。





はぁあ……





金曜の真夜中に、深いため息をつくと財前はうなだれた。

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