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第81話

「それって……まさか」


瑛士が話を遮った。



「まさか……それって、まさか……」


彼は青ざめている。私は小刻みに震える大きな手をとって、私の膝にのせてそっと握った。



思い出から浮上してきたみたいに、高柿先生は目を開けた。そして瑛士を見上げる。少し首を動かしたから……目じりからつつつ、と涙が頬を伝って枕に吸い込まれて消えた。



「彼女は……男の子を生んだのよ。彼女にそっくりな、かわいい男の子をね。突然あっけなく実の父親のようにこの世を去ってしまったけれど、形見を残してくれたの。それで今度は、彼の成長を見守ることができた。まさか彼女にまで先立たれるとは思わなかったから死ぬほどつらかったけど、その子がいたから……」


私は先生の細く壊れそうな左手を取って、私の膝の上で瑛士の手に重ねた。冷たい、枝のように細い指に瑛士がびくりとする。


「彼女が幼い息子を連れてとよしま亭に通うようになったのは、私が修業時代の先輩……紗栄さんのおじいさんの話を学校で度々していたからかもね。女だからと蔑んで偏見で実力を認めてくれない人たちの中で、唯一、私を認めてくれた人だって生徒たちに話していたからね」


折れそうに華奢な手に重ねた瑛士の手の上から、私は二つの手を上下からそっと包み込んだ。


「だから……昼にあなたから聞いたこと、我慢がならなかったのよ」




『あなたはあの子の生みの母親のようになる必要はないのです』




そうか。あれは、先生にとっては娘を侮辱されたことだったのか。だからあんなに怒りに震えていたのね。


「もちろん、妻子がいる相手を愛するのは、本人たち以外のすべての人たちを不幸にするわね。だから会長夫人も愛のない結婚とはいえ犠牲者のひとりだから、そんな風に考えるのは仕方がないわ。でも私は彼女に仕返しをするような立場ではないし、それに、愛情はなかったとはいえ、虐待せずに自分の息子として私の孫を育ててくれたしね」


先生は私に穏やかに笑みかけた。


「でもやっぱり、娘が悪く言われるのはカチンとくるじゃない? だから会長を呼びつけて言ってやったのよ。もしも紗栄さんがあなたの息子に役に立つような条件を何も持っていないというならば、私の持つすべてを彼女に相続させるわ。そうすればあなたたちのほうからぜひ縁を取り持ってほしいと泣きつくようになるわよってね」


「先生……脅しのはったりでも、怖すぎること言わないでください……」


私ははぁ、とため息をついた。高柿先生は少女のようにくすくすと笑う。


「父は……会長は、知っているんですか? あなたが……その、俺の母の……」


瑛士が困惑したまま訊く。


先生はふんと鼻で笑った。


「あなたが藤倉家に正式に入ることになった12歳の時に、伝えたわ。もしもないがしろにしたら、私の跡継ぎにするために奪いますからねって」


「だからあなたは、初めて仕事の依頼でコンタクトを取った時からずっと俺に好意的で……」


「あなたと仕事ができるなんて、嬉しくて仕方がなくて。仕事の依頼を渋っていたのは、困らせるのが楽しかったから。私が建てた物件に入居するように誘導したのは、あの家をあなたにあげたかったから。私の尊敬する先輩の孫娘を隣に住まわせたのは、彼女が必ずあなたを幸せにしてくれると思ったから。ああ……なんだか疲れたわ。目の前が真っ暗よ。少し……やすませ……てもら……」


ふ――っ……とかすかに長く息を吐いて、先生は薄い瞼をゆっくりと閉じた。小さく華奢な手から次第に力が抜けてゆく。


「せっ、先生……?」


「おい、ちょっと……まさか……?」


私たちは動揺する。瑛士は立ち上がり、枕元の緊急ブザーを何度も押す。


「先生! 先生……?!」


「おい! 頼むから目を開けてくれ!」



私も瑛士も、泣きながら先生を見つめた。


ばたばたと医師と看護師たちが入ってきて、私たちは壁際に追いやられる。




先生。



だめ、まだ、逝かないで。



まだまだ、だめです。




どうか、お願いします……!

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