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第77話

あなたのために私ができること。



由緒正しい家柄の血統を加えることでも、先祖代々が培ってきたあらゆる業界にクモの巣のように張り巡らされた、黄金の人脈をつなぐことでもなく。


権力を持った親がいるとか、大金を動かす影響力があることとかでもなく。



会長夫人は最初から最後まで徹底して客観視できる分だけ、はるかに正しい。


今ならまだ、お互いに傷は浅いかもしれない。



20年か40年か……それくらい経てば、ただの思い出のひとつになるでしょうね。




私は、平気。


きっといつかほかの誰かを好きになって、あなたのことは穏やかな気持ちで思い出せるようになると思う。


失恋くらいくつか経験してるから、大丈夫だという確信はある。


大丈夫になるまでには、苦しいかもしれないけど。


私には、料理があるから。


だからたぶん、大丈夫。



あなたのことは、ちょっと……いや、すごく心配だけどね。





空が、白んでくる。


先に起きてそっと寝室を抜け出して、朝ご飯にパンを焼く。


「朝だよ。支度しないと、財前さんが迎えに来ちゃうよ」


「はぁ……紗栄、代わりに行ってきて。今日一日、副社長代理に任命する。わからないことは、財前に訊けばいいから」


「大事件になるでしょ。財前さんがストレスで過労死しちゃう」


絡みついてくる瑛士を背負って引っ張ると、ベッドからぼとりと落ちる。それでも起きようとしないので、ドアを全開にする。


「ほら、パンのいいにおい、焼き立て。早く起きて!」


悔し気に低くうなると、観念してのろのろと起き上がる『世界を変える100人』のひとり。



無事に着替えさせて準備を終えて食卓に着かせると、コーヒーを差し出しながら私は穏やかな笑みを浮かべて言った。


「今日からしばらくは、会いに来ないで」


「——は?」


瑛士は驚愕に目を見開いた。


「今、なんて言った?」


「しばらくは会いに来ないでって言ったけど」


「なんで?!」


固まったまま、瑛士は眉根を寄せた。


「うん、ちょっとね。よく考えたいから」


「なにを?!」


「いろいろと」


「だから、いろいろって何?」


「いろいろはいろいろだよ」


「しばらくって、いつまで」


「うーん。私が、もういいよってメッセージ送るまで?」


「まさか、俺を捨てるつもりか?」


ああもう。


こんな時でさえ、この人はなんてかわいいの?



「そんなこと言ってないでしょ。会長夫人に対抗するためには、私も冷静に考えたいの。相手と同じように考えないと」


「……」


ぱくぱく、ぱく、ぱくぱくぱく。


口は動くけど、言葉が出てこないみたい。


きっといろいろなことを瞬時に考えて、それらがドラムの中の洗濯物みたいに、考えがぐるぐるに絡まっているのだろう。


頭が回る人に勝つには、朝の不意打ちが勝算のカギになる。


「わかってくれた?」


首をかしげると、瑛士は納得していない表情で渋々うなずいた。


「——わからないけど、わかった」




本当は、迷っている。


どうして困難なほうにわざと足を踏み込まないといけないのか。


もっと楽に生きたほうが、いいんじゃない?



でも人の気持ちって、そんなに簡単に割り切れるものではないよね……




「あらあらあら、なんか、どうしちゃったのかしら? 渋い顔して、美人さんが台無しよ?」


久々にランチのお誘いが来た。


今回は『秀鳴軒』という、明治時代創業のフレンチレストラン。5代目シェフが高柿先生の知人らしい。


今日はおしゃれをしてきて、と言われたので、ネイビーのひざ丈Aラインシャツワンピースに青のパンプスで来た。高柿先生は単衣ひとえ仕立ての古代紫の地に白や薄紫の藤の花があしらわれた着物。相変わらず粋な格好ね。


「さては誰かさんと喧嘩でもしたのかしら?」


高柿先生は紗をはった扇子の陰でふふふと笑う。


もう私たちのことは料理教室のほかのクラスでも噂されているから、高柿先生の耳にも当然届いている。


「いつも私のほうが絶対的に有利なので、けんかにはなりません」


私は肩をすくめた。高柿先生はぱらりと扇を広げて笑う。


「ほほ。それじゃあ、どうしてそんなこの世の終わりみたいな顔をしているのかしら?」


私は藤倉会長宅に行った時のことを高柿先生にかいつまんで話した。


はじめは面白がってにこにこしながら相槌を打っていた先生が、会長夫人に言われたことを話したあたりから表情が曇ってきた。



「——ということで、私はどうするべきかよく考えたくて、しばらく会いに来ないでとついこの前言ってみました」


はっ。


私は驚きに息をのんだ。

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