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第75話
5月に入ったころから、瑛士と財前さんの欠席が増えた。
サペレの創立記念パーティを控えていたし、何やら大きなプロジェクトが複数同時進行しているらしかった。
財前さんのクリームシチューが本人抜きでは進まないので、6月ごろから始める予定だった様々な食材の切り方や調理法について先に学ぶことにしておいた。
私は藤倉会長宅を訪れて以来、ふさぎ込むことが多くなっていた。
会長夫人に言われたことを、毎日思い返す。
『あなたはあの子の生みの母親のようになる必要は、ないのです』
ずっと物静かに黙っていたくせに、二人きりになったあの絶妙のタイミングで、彼女は言った。
会長と美桜さんがいくらお互いに愛し合っていたとしても、彼女はしょせんひとりのパティシエであって、会長の子を産んだとしても会長夫人にはなれなかったのよ。
そう言っているみたいだった。
瑛士は仕事で疲れて帰ってくると、自分の部屋のドアへ行くよりも先に私のドアをノックした。
その日にあったことを聴いてあげて、何か料理に関することを質問されれば答えて、一緒に考える。
私たちは初めの頃は険悪な感じだったはずなのに、いつのまにかそばにいるのが自然な感じになっていた。
会長夫人は瑛士が私にベタ惚れしているというようなことを言っていたけれど、私もいつの間にか同じみたい。
疲れて帰ってくれば癒してあげたいし、一緒にいてほしいと言われればずっと抱きしめていてあげたい。
『もしもあなたがあの子のことを思っていてくださるなら、お見合いするように勧めてくださいませんか?』
つまり、「自分にとって利益のある結婚を進めて、あなたは身を引いてくれませんか?」という意味なのは、私でもわかる。
「愛する女ではなく、利益になる立場の女と結婚しなさい」と。
私たちは一生一緒にいようと誓ったわけでも、法的な契約を結んでいるわけでもないから、そうなることもあり得るだろう。
瑛士が聞いたら怒り出すかもしれないけど、会長夫人の意見は政略結婚の家系では実にまともなものだと思う。
でもそう言われたからとめそめそしながら従う気はない。
嫌いになったら自分からちゃんと別れを告げるし、言われた通りにするほど、自分がないわけでもない。
あれはあくまで、会長夫人の意見に過ぎない。
――と思っていたら。
「うわ。夫人、強硬手段に出たのね……」
機嫌の悪そうな瑛士が、うちに来るなり一枚の紙を私に渡してソファに座り、ひじ掛けをいらいらと指で叩く。
初めて見た。雑誌にする前の原稿。「校了」というらしい。それをプリントアウトしたものが、今、ローテーブルの上にある。
それはサペレの副社長の結婚に関する内容の、週刊誌の記事だった。
現在、政治家の娘、大手商社の社長令嬢、藤倉グループ関連企業の取締役令嬢などが候補に挙がっていて、そろそろ結婚相手が決まるだろうというような内容。
ベタなドラマみたいだけど。
会長夫人——瑛士の継母の目的は、私を打ちのめすことではない、と思う。
これは彼女の権力誇示だ。
「私には力があるから、何でも、どうにでもできる。でもあなたには何もない。あなたは何も持たない、何もできないちっぽけな存在なのよ」
そんな感じかな。
もしも私が夫人の立場だったら……
政略結婚をした夫が惚れこんだ女の子供を自分の子供として育てなければいけなかった。
その子がおとなしく自分のように政略結婚すれば何も問題はないのに、自分の父親のように好きになった女を選びたがっている。
きっと、プライドを傷つけられて、惨めな気持ちになるだろう。怒りを感じるかもしれない。
「うちの顧問弁護士が止めたから記事にはならないけど、やりすぎだと思わないか? いったい、何時代だよ?」
私は苦笑して反動をつけてソファから立ち上がると、瑛士の手を引っ張って立たせてにっこり笑みかけた。
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