あなたのために私ができること

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第74話

「来週末、一緒に実家に来てほしいんだけど」


「それって……」


藤倉グループ会長宅ってこと?


青ざめて固まる私に瑛士は苦笑する。


「心配ない、ただ会ってみたいだけだそうだから」


……それをうのみにするなら、確かに何の心配もいらないよね。でも絶対に、「会ってみたいだけ」で済むわけないと思うんだけど。



ゴールデンウィークのはじめの日曜日。


連れられるがままに藤倉会長宅を訪れると、意外な歓迎ムードに少し気が抜けた。


会長はあまり瑛士には似ていなかったけど、大グループ企業の会長のイメージとは裏腹に、物静かで柔らかな物腰のひとだった。継母だという夫人はとても華奢なほっそりとした控えめな感じ。異母兄は仕事で出ているということで不在だった。



「紗栄さんは、とよしま亭のお嬢さんでしたか」


会長は穏やかに言った。さすがに、私の身辺調査は済んでいるのだろう。もちろん、うちの店が瑛士のお母さんのお気に入りの店だったということも。私ははい、と答えた。


「お父上は残念なことでした。あの味が受け継がれないのはとても残念だ」


私は瑛士を見た。


彼は私がレシピを受け継いでいることは、会長には言っていないらしい。言えばきっと何か不都合なことになるのだろう。私は苦笑して曖昧にごまかした。



お抱えの料理人が作ってくれた創作料理を四人でいただく。


夫人はほとんどしゃべらないで、会長だけが私に質問をする。意地悪なことは何も訊かれなかったけど、緊張しすぎてうまく答えられた自信がない。


昼食の後、夫人がサンルームにお茶の準備をするというので、手伝いを申し出た。



それが唯一、お手洗いに行く以外に私が瑛士から離れた瞬間だった。



「もしもあなたがあの子のことを思っていてくださるなら」


夫人はティーポッドにお湯を注ぎながら、静かにそっと、おもむろに話し始めた。


「お見合いするように勧めてくださいませんか?」


「はい?」


集中して耳を澄まさないと聞こえない、囁きのように小さな声。淡々とした、感情のこもっていない声。


「あの子のほうが、あなたに惚れこんでいるようですけど……会長の子として生まれたからには、恋愛結婚なんて、望めないのです。家のために、会社のために利益になる相手と結婚しなければなりません。籍に入っていればたとえ次男であっても、それは同じです」


「……はい」


「あなたはあの子の生みの母親のようになる必要は、ないのです」


「……」


彼女は、私を貶めたいわけではない。意地悪なことを言っているわけでもない。


ただ……私は藤倉家のためにも会社のためにも何の利益にもならないということを、諭しているだけなんだと思う。



私は小刻みに震える手を、もう一方の手でぎゅっと握りしめた。


今すぐにでも藤倉邸から走って逃げだしたい衝動を、必死で隠してごまかした。



彼女は正しい。



私はただのちいさな洋食屋の娘。


兄は詐欺に引っかかって全財産を失ったし、父はつい5か月前に突然病死してしまった。


最近は、忘れてしまっていたけれど……




私には何もない。




何もないんだった。

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