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第69話
「ちょっと一杯行きませんか?」というお酒を飲まない浅井さんの誘いに、上山さん、瑛士、財前さんが合意して、(たぶん)駅前の屋台村へ向かった。
田所さんは徹夜の研究があるからと言って、研究所に戻った。
私と愛莉ちゃんは居酒屋の気分ではなかったので、カフェで軽く夕食を取ることにした。
戸締りを終えてビルの入り口まで降りてくると、正面の舗道の歩道用防護柵に軽く腰を下ろし、ぼんやりしている橋本さんを見かけた。
金曜日の夜の、人々でにぎわう舗道。街の明かり、車道を行きかう無数のヘッドライト、テールランプ。
「うわ。モデルか俳優みたいね」
「ちょっとくたびれた感じが、色っぽいですね」
ほんとね。
コツコツコツ。
舗道の石畳に響く、12センチヒールの音。レッドソールの黒いハイヒールは、フランスのハイブランド。それがそんなにも似合う日本女性は見たことがない。黒いトレンチコートのウエストをぎゅっと絞り、軽くウェーブしたショートボブの髪を冷たい春の夜気になびかせながらやってきた美女を見るや否や、橋本さんの顔が満開の桜のようにほころんだ。
「あ。もしや、橋本夫人?」
愛莉ちゃんがぎょっとする。わかる。初めて見たら、そうなるよね。
「そのようね」
森の中のレストランで見かけたことは……とりあえず内緒。
「女優?」
「雑誌の編集長でしょう」
「あ、そう言ってましたね」
美女が目の前に来て、橋本さんは嬉しそうにその手に触れる。そしてぼーっと二人を見つめる私たちに気づいてこちらに微笑むと、なにやら美女の肘を引いて囁いた。美女はこちらを見てふと微笑んだ。そして二人でこちらに歩いてくる。
「先生方。妻を紹介させてください」
橋本さんは、まるで自慢の母親を担任の先生に見せびらかす小学生男子のようにうれしそうに見えた。
「はじめまして。橋本の妻です。夫がお世話になっております」
彼女は銀製の名刺入れからおしゃれなデザインの名刺を私たちにそれぞれ渡してくれた。橋本シエナさん。誰もが知る女性ファッション誌の編集長。
「はじめまして。あいにく、私共は名刺がないので差し上げられないのですが、高柿調理専門学校の料理教室でSクラスを担当しております講師の豊嶋紗栄と、こちらはアシスタントの松原愛莉嬢です。よろしくお願いします」
お時間よろしければ、ということで、私たち四人は大通りの素敵なカフェに入った。
「クラスが変わる前まではあまり乗り気でなかったのが、先月からはすごく楽しそうで毎週金曜の朝になるとご機嫌なんですよ。先生方のご指導が素晴らしくて、クラスメイト達とも楽しくやっているようです」
奥さんがちらりと橋本さんを見る。橋本さんは同じタイミングで奥さんを見たので、二人の視線が合う。それだけなのに、すごく素敵だ。
森のレストランで見かけたときも思ったけど……ほんとにこんな美しい人が、『お前のメシはマズすぎる』なんて言うのかな?
ちょうどいい機会だ。私は少し体を前に傾けた。
「奥さんは、オムライスがお好きだそうですが、どんなオムライスが好みですか? 今回の授業は橋本さんのリクエストの番なので、奥さん好みのオムライスを作ろうと思います」
彼女はちょっと目を見開いて、それから少女のように目をくるりと天井に向けて口角を上げた。
「そうですね。ケチャップライスの上にたまごをのせて真ん中を割ると、とろりとたまごが出てくるようなのもいいですが、やはりどこか懐かしい感じのする、ステンレスの型で抜いたあのアーモンドみたいな形のご飯に、薄いたまごがふわりとのった、トマトソースがかかっているようなのが好きですね」
「なるほど、わかりました。ではその路線で行かせていただきます」
ちょうど愛莉ちゃんがトロふわオムライスのデミグラスソース掛けを注文して食べていた。それをちらりと見て、彼女は言ったのだ。ちなみに私はエビのレモンクリームパスタ、橋本さんはボンゴレビアンコ、奥さんはアーモンドミルクラテだけ。
「よろしくお願いいたします」
奥さんは私と愛莉ちゃんに頭を下げた。
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