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第65話
午後6時を少し過ぎたころ、ベルが鳴る。
グレイのルームパンツに緩めの白いTシャツ、紺のロングカーディガン姿の瑛士が、よく冷えたピエモンテ産のシャルドネを手土産に立っていた。
襟元も緩めで、首筋と鎖骨が見えて……普段より色気が3倍増しくらい。
私は動揺を隠そうと目をそらす。
でも、あれ?
「鍋は?」
首をかしげると、瑛士ははっと気づいたようでおろおろし始めた。
「あ、肝心のものを忘れてきた。ちょっと、今取って……」
自分の部屋に戻りかけたその腕をつかんで引っ張る。
「いいよ。いつでもいいから」
おかしくて、くすくすと笑ってしまう。
『世界を変える100人』に選ばれるエリートビジネスマンでも、うっかりミスをする。耳が赤くなっているところが、かわいい。
「本当に同じつくりなんだな」
家の中を見回して瑛士がつぶやく。
「おかげで昨日あなたが寝込んでた時も、何がどこにあるのかすべてわかったからよかったよ。洗面器がないのは参ったけど」
「普段から使わないからな。なくて困ったことなかったし」
「ボウルで代用しちゃった。どうせ料理作らないでしょう?」
冷やした
瑛士はアイランドキッチンのカウンターでシャルドネの栓を抜いてグラスに注ぐ。
「まさか、あれから作ったの? これ」
前菜を見て瑛士が首をかしげる。
「カポナータは作り置き。フォカッチャだけ焼いた。どうぞ、座ってつまんでて。もうすぐメインが焼きあがるから」
キッチンには、業務用といえるくらい大きなステンレスのレンジフードファンが取り付けられている。だからオーブンの香ばしいにおいも声もすべてそこに吸い込まれる。
オーブンを覗いていると、後ろから瑛士が同じ高さで同じように覗き込んだ。私は驚いてびくっと肩を縮めた。首筋に息がかかる距離。
「これって……」
瑛士が息をのむ。
私は動揺を押し隠して笑みを浮かべる。
「ほら、焼きあがったよ。席について」
耐熱ガラスのオーブン皿のなかでぐつぐつと音を立てているのは、ポテトグラタン。
角型のターナーで切り分けて、お皿に盛ってナツメグをひとふり。
チーズが伸びて、オレンジ色のソースがスライスしたポテトの間からとろりと垂れてくる。
懐かしい香りが広がる。何年ぶりだろう?
瑛士は目の前のポテトグラタンを凝視している。
「めしあがれ?」
声をかけても、気づかない。
私はフォークを持ち上げて、瑛士の目の前に差し出した。
「……あ。ありがとう。いただきます」
フォークを受け取ると、瑛士はおそるおそるひとくちすくいあげて口に入れた。
そして驚きと……なつかしさを無言で味わう。
そのまま無言で一心に食べ続ける。
ものの一分で、皿は空になった。
「もっと食べる?」
こくり。首が縦に振られる。
またターナーで適当な大きさにカットして皿に盛ってあげる。瑛士は自分でナツメグをかけて、今度はゆっくりと味わいながら食べる。
私はローズマリー入りのフォカッチャをちぎりながら、その様子を静かに眺めていた。
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