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第63話
サナギからモルフォチョウが孵化したように。
みにくいアヒルの子が、美しい白鳥になるように。
モブ的な存在だった彼女はどうしてだか美しい大人の女性になり、誰もが知るメジャーな女性誌のおしゃれな編集長にのし上がっていた。
そして彼女は髪の毛の先からつま先まで完璧な姿で,よれよれの橋本さんの手を取って言った。
「あたしは、学生時代からずっとあんたのことが好きだったの。仕事で挫折して腐ってるって噂で聞いて、心が痛かった。社会復帰に何年かかってもいいし、しなくてもいい。あたしと結婚しよう。一生、面倒見てあげる」
なんて……
なんて男前なプロポーズなの?
地位と名誉と社会的な信頼と美しさを手に入れた元モブ女は、紙の本や雑誌が売れなくなった時代でも業績をばんばんうなぎ上りに伸ばすヤリ手の女編集長になって、学生時代の初恋の相手にプロポーズしたのだ。
橋本さんは世間でたったひとりだけ、彼を見捨てずにいてくれた彼女に感謝した。
そして30歳の時、彼は彼女と結婚して主夫になり、彼女を支えてゆく決心をしたのだそうだ。
「——なるほど。あの女性はやっぱり、奥さんだったんじゃないか?」
帰りの車の中で、私は瑛士に親睦会の時に愛莉ちゃんと聴いた彼の話を教えてあげた。
「うーん。たしかに、すごい美女だった。お手洗いで会ったけど……そんなイノシシとはイメージが重ならないな……」
あんなに優雅な細い美女が。
「オムライスってイメージも重ならないな?」
瑛士が苦笑する。
「それを言ったら瑛士とハンバーグだって」
「いや、橋本夫人とオムライスほどでは……」
私たちはくすくすと笑う。
「まあ、来週はとにかく、オムライスの座学をする予定だからね。卵を使うから、そこがちょっと皆さんには難しいかもね」
「卵は焼くだけだから簡単だと思ってた」
「シンプルなだけに火加減もタイミングも難しいんだよ。だから1回分は卵の焼き方だけで終わるかもね」
あんなに仲良さそうなら、たとえオムライスがまずくても何の心配もなさそうだけどな……
でも、おいしいって言ってもらえたら、橋本さんは自信を取り戻すかもしれないよね。
そんな感じで、人の心配をしながら帰ってくると……
「あー! おかえり、紗栄ちゃん!」
階段を上がると私のドアの前にカズマがいた。
「カズマ……なに? なんでうち、わかった?」
「教室の事務の人に聞いたんだ」
えっ? それって、個人情報漏洩じゃないの?!
「てか、藤倉さんも一緒だったんだね。なぁに? デート? いつの間にそんな仲になったの?」
私ははっしと、瑛士の手を後ろ手にとらえた。
彼の表情は見えないけれど、ここは協力してくれるところでしょう?
「そ、そ、そうだよ。実は……一緒に! 住んでるからねっ!」
……瑛士も使った手だ。嘘はついていない。部屋番号の前までは同じ住所だから。
(ほら! 早く助けて! 私だってあの女性の時、助けてあげたんだから!)
私は瑛士の手をぎゅっと握った。
伝わったのか自主的に助け船を出してきたのか、瑛士は後ろから私のウエストに手を回し、私を引き寄せるとカズマにため息混じりに言った。
「吉川君。いくら小さなころの知り合いでも、家まで突然訪ねてきちゃいけないな。俺も不快だ」
「こんなに教室からもうちのホテルからも近いところだったなんてね。仕事上がりにお邪魔して、ご飯でも御馳走してもらおうと思ったんだけどな」
くちびる尖らしてかわいい顔してもダメだよカズマ。魂胆がわかっているだけに怖いんだけど。
しかもどうして私があんたのご飯を作ってあげなきゃいけないわけ?
ちょっと腹立つわ。
「——紗栄はきみの飯は作らない」
瑛士は抑揚のない低い声で言った。わざとなのか鈍いのか、カズマはのほほんとしたまま言う。
「えー、ケチ。ちょっとぐらい、いいじゃん」
「いや、何も私のところに来なくても、あんたあちこちにカノジョがいるんでしょ。その中のどこかに行けばご飯ぐらいありつけるでしょう」
「紗栄ちゃんほど旨い飯作れる人なんていないって」
ああ。頭が痛くなってくる。私は頭を抑えた。
「お願いだから帰って。私、あんたを嫁にする気も、扶養して贅沢させてやるやるつもりもないから!」
ばんっ!
突然の大きな音に、私はびくっと肩をすくめた。
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