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第62話

橋本さんはSクラスの中では、ちょっと影が薄いほうだ。


なぜかというと、おとなしいから。


彼がおどおどしているのは、奥さんが怖いからだとみんな思っていた。



でも。



土曜日のお昼に森の中のレストランで私と瑛士が目撃した時は、奥さんとはとても仲良しに見えた。


それまで、私はかなりマニッシュで傲慢な女性を想像していた。


家庭内のすべてのイニシアティブを取り、主夫の夫を虐待し、罵倒する妻。


実際、橋本さんも料理教室に通い始めた衝撃的な理由を言っていたじゃない?



『妻が、お前のメシはマズすぎるから習ってこいと言うので、通い始めました』



『お前のメシはマズすぎる』なんて……


あの美女が、そんなこと言う⁇



「親睦会の時に、私と愛莉ちゃんに、橋本さんが言ったんだけど……」


帰り道、私は橋本さんから聞いた話を瑛士に話した。



かつての橋本さんは、バリバリのエリートサラリーマンとして、大手の広告会社で働いていた。


女性にもモテモテで、イケメンの部類に入る(と本人が言ったけど、部類じゃなくてイケメンはイケメンだと私も愛莉ちゃんも思った)橋本さんは女性たちが取り合いをするほど選び放題だった。


でも29歳の時に大口の契約先の受注をほかの会社に奪われるという初歩的なミスを犯してしまった。その直後にちょうど会社が売却され、真っ先にリストラの対象になり、人員削減のために失職してしまった。



彼は絶望の淵に落とされた。



中・高・大と一貫校で温室育ちの彼にとって、大きな挫折は経験したことのない未知の困難だった。なかなか立ち直れなかったため、再就職も難しかった。


毎日、彼は一人で部屋にこもってぼんやりと無為な時を過ごしていた。


まるでロープを放した小舟が岸からゆっくりと離れてゆくように、自分を社会から隔絶していった。


そして数週間経つと、なんだか何もかもが別にどうでもいいように思えてきた。



「あんなに一生懸命に働いて、社会の一員として貢献し続けてきたのに。いったん外れると、もう誰からも何からも知らんぷりされるんですよね。でも忘れ去られていくのも仕方ないのかなって、へんに達観しちゃって……戻るための努力なんてしたくないなって思い始めたんです」



ヘタレな発言だけど、私と愛莉ちゃんは反論せずに聴いていた。


橋本さんがそんな感じで腐った仙人のように無我の境地をふらふらと漂っていた時。


ある日突然、イノシシ……いや、大学時代の同級生だった女性が押しかけてきた。



彼女は橋本さんと同じ学部の同じサークルのひとだった。


その頃の橋本さんはモテモテの優男で、同じサークルのかわいい女子たちと何人か付き合ったりデートしたりしていた。


でもその彼女はどちらかというと地味で目立たたなくて、どんな格好でどんな化粧をしてどんな髪形をしていたのか思い出せなかったらしい。




とにかく、その彼女が8年も経って訪ねてきた。しかも、驚異的な変身を遂げて。

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