恐妻家と逆プロポーズ
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第61話
「いや、ちがう。それはありそうでなかった案だ。AかBかの二者択一でしか考えていなかったな。はは、そういう手もあったか」
「この仔羊リブの炭火焼、すっごくおいしい。鶏肉のアーモンドソース煮も」
デザートにはバスク地方の黒焦げチーズケーキ、チーズの
「一番人気はチーズケーキらしいけど」
「ん! チーズケーキもカタラーニャもおいしいけど、私はこの濃厚なチーズアイスが好きかも」
「気に入ったならば普通に一人前頼もうか?」
「大丈夫。もうおなかいっぱい。いっぺんにこんなにたくさんの種類を食べられるなんて、すっごく幸せ」
瑛士は店長に気づいたことを伝えに行った。私はお手洗いに。
洗面台の隣の鏡でお化粧直しをしていると、一人の女性が個室から出てきて隣で手を洗い始めた。ちら、と鏡越しに見る。うわぁ。きれいな人。スリムで背が高くて、真っ赤な口紅が似合う、ショートボブの大人の女性って感じ。彼女は私の背後を回って、反対隣の鏡で化粧直しを始める。
先に済んだ私はお手洗いを出る。通路を歩いていると……
あれ?
ほぼ満席の店内の、大きな柱の手前の窓際の席。見慣れた人が外をぼんやりと見つめて座っている。ブラウン系の千鳥柄のジャケットに白いシャツ、細く長い首に細面の繊細そうな顔。いつもはちょっと気弱そうに見えるけれど、今日は愁いを帯びたイケメンといった風情。
どうしようかな? 声をかけようかな?
でも、私は瑛士と一緒だし、むこうも一人ではない様子。空いている向かい側の席にも、お皿やカトラリーが並んでいる。
コツコツコツ。
私の背後から先ほどの美女が出てくる。優雅な足取り。
背筋がピンと伸びて、後姿もかっこいい。
うん?
美女は優雅な足取りで……「彼」の向かい側の椅子の背を引いた。
彼女が戻ったのを見た彼は、彼女を見上げて幸せそうにふわりと微笑んだ。
あらー!
私は急いで自分のいた席へ戻る。
そして戻ってきた瑛士の袖を引っ張る。
「ねえねえ、ちょっと、来て! 見て!」
そのまま、瑛士の腕を引っ張って、ふたつ手前の柱の陰まで行った。
「なに?」
「あそこ。あれ、見て」
私は柱の陰から二人の席を指さす。
「あ」
瑛士がやっと気づいた。
30代半ばの美男美女。
女性のほうは、まあ、見るからに気が強そうな、たぶんバリキャリだろうな、という美女。肩肘をついて、向かいの席に座る男性に何かを話している。
対する男性のほうは、柔らかい雰囲気の線の細い美男。女性に優し気なまなざしを向けて、相槌を打ちながらとろけそうな表情で話を聞き入っている。
一見すると、すごく幸せそうなカップル。
二人のそれぞれの左手の薬指には、銀色の指輪がはめられている。
そう、幸せそうな……夫婦だ。
私は柱にもたれて二人を観察している。
瑛士は私の背後から二人を神妙な表情で見つめている。
振り返って瑛士を見上げ、私は一応訊いてみる。
「ねえ、声をかけようか? それともこのままスルーしようか?」
「べつに、どっちでもいいけど。彼に、俺といるところを見られてもいいのか?」
「いいけど。隠してるわけでもないし、むしろ、あなたは私と一緒にいるところを世間に認識されればいいわけでしょ?」
「そうだけど、彼は……料理教室の生徒のひとりだから」
「あっ!」
ふたりは席を立った。
どうやら帰るみたい。
隠れる必要なんてないのに、私は瑛士の腕を引っ張って柱の陰に隠れた。
「なんで隠れるの? 見られてもいいって言ったばっかりで」
瑛士がぷっと吹き出す。
「つい……あ、行っちゃう。追いかける?」
「そこまでしなくてもいいんじゃないか? なんか……想像とはちょっと違ったな、彼女」
「そう思う? 私も、もっと怖ぁい猛獣みたいな感じのひとを想像してたよ」
私は苦笑した。レジで女性がクレジットカードを出している。
「俺も。普段のあの人の恐妻家ぶりからすると、過激な奥さんを想像してた」
瑛士も苦笑する。
女性が支払いを済ませた。
それを待っていた男性——わがSクラスの生徒の一人・橋本さんが、女性——奥さんの手を取り、二人は仲睦まじげに手をつないだまま店を出て行ったのだった。
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