5

第59話

頭が……瑛士の頭が、私の右肩に載っていた。


そして……なぜか、彼の両手は私を後ろから抱きしめて、私のウエストに巻き付いていた。




身動きが、取れない。


あまりにも、胸が苦しくて。




「……ありがとう。面倒、見てくれて」


かすれた声が、吐息が、鼓膜に、肩に響く。


病人のくせに、やめてほしい。全身の力が抜けそう。


「……いいよ、別に、暇人だから」


私は左手を伸ばし、瑛士の頭を撫でた。彼は私の肩の上でふっと笑みをもらし、唇を動かした。


「この前は何気に言っただけだから、こだわってそういうふうに嫌味に使うのはやめてほしいんだけど」


「暇人」ね。でも、あなたが言ったんじゃない。


あなたこそ、ひとの肩の上でしゃべるのやめてほしいんですけど。


首筋と肩の中間に唇が当たってるのにもごもごしゃべられると……


腰砕けたらどうしてくれるのよ?



「あの。重いんですけど。歩くから、一緒に歩いてね?」


私は瑛士の左手を掴むと、自分の肩に持ち上げた。その腕を担ぎながら、ペンギンみたいに右、左と一歩ずつ前に出る。


そしてベッドの前まで来ると、右肩を下げて後ろ向きにベッドにダイブした。



ぼすっと、瑛士ごと倒れこむ。自分だけ起きようとじたばたともがく。


「ちょっと、手。放して。起きるから」


「うん……ちょっとだけ」


「なにが?」


「ちょっと……」


解放されるどころか、左手も巻き付いてくる。身をよじると横向きになったけれど、抱き枕みたいに抱きしめられたまま。


ちょっと……ちょっと!



ぴたりと、まだ熱い額が私の首の後ろに密着する。


「……」


諦めのため息をつく。病人だから、人肌が恋しいのかもしれない。


まったく、色っぽい意味はない。


でも、その認識に反して……私の心臓は口から飛び出そう。




しかたがない、眠るまで、待とう。




やがて背後から、寝息が聞こえてくる。そっと腕を外して起き上がる。掛け布団をかけてやり、体温計を額に向ける。


37度2分。


もう大丈夫そう。



ふう、とため息をつき、乱れた髪を撫でつけ、そっと寝室を出てドアを閉めた。



背中に伝わった重さと熱が自然と思い出される。


「……」


コアントローの、ふわりと香るオレンジの香り。




……恋人は、ふりだけなのに。


しかも、うちの店を取った相手なのに。


認めたくなくて抵抗し続けている自分と、すでに素直に降伏している自分が心の中でせめぎ合う。





キッチンへ行って、ガラスの器を洗い、おかゆは片手パンに入れたまま、ラップをかけて(持参)ふたをして冷蔵庫に入れる。



『冷蔵庫に中華がゆがあるから、温めてどうぞ。用意が面倒なら、メッセージしてくれればいいから』


メモを書いて、ダイニングテーブルに置く。


玄関の靴箱の上に鍵があったから、施錠して持ち帰る。明日の午前中に返せばいいでしょう。


鍵が見当たらなかったら、私にまず訊いてくるはずだから。





翌朝。


メッセージが来た。



『抜き打ちモニターの仕事に行こう。ドレスコードはカジュアル。11時半に、ドアの前で』



ちょっと私、どうしちゃったの?


たかが仕事(無償だけど)のメッセージでそわそわするなんて。



それにしても、「元気になった」とか「もう大丈夫」とか、そう言う報告はないわけ?


まあ、そのメッセージが来ること自体、元気になったということなんだろうけど。




11時半。


ドアを開けるとネイビーのテーラードジャケットにブルーのボタンダウンシャツ、黒パンツに黒スニーカーの瑛士が腕時計から視線を上げて口角を上げた。


「ジャスト」



うわぁ、どうしよう。


意識しちゃいけないのに、冷静さがどこかへ行ってしまう。


「おかゆは?」


ちょっと冷たい口調で訊く。


「食べたよ。まあ、もう病人じゃないけど」


「鍋は?」


「そんなの、今返さなくてもいいだろう」


「……これは、返す」


私は部屋の鍵を差し出す。瑛士はぎこちない私の態度をふっと笑い飛ばす。


「それは、持ってていいよ。スペアだから」


「いや、持ってる意味、なくない?」


「また俺が死にそうなとき、助けに来てくれるように」



ぱくぱく。


何も言い返せなくて、固まってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る