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第52話
「どうして、私ではだめなんでしょうか?」
彼女は静かに訊いてきた。
物静かで従順でお茶もお花も師範代で、料理もできるらしい。控えめながらも美しく、品もある。
でも。
なぜだろう?
ひと月半前に、彼のオフィスに乗り込んで怒っていた女……豊嶋紗栄。気づくと彼女のことばかり考えてしまう。
しかも、高柿のプロジェクト参加条件にあげられた料理教室に行くと、講師は彼女だった。
彼女は、実家を売り渡す日に、行方不明の契約者である兄に変わって契約を遂行しに現れた。そして、泣きながらメニューは渡せない、ここにあるからと言って自分の頭を指さした。
衝撃だった。
それ以来、気が付けば彼女のことを思い出していた。そして毎週、料理教室で会えるようになった。そのうえ、隣に住んでいることも判明した。
……嫌われている実感はある。
でも、浅井家を訪問したあたりから、ちょっと壁が低く薄くなったような気がしていた。
笑顔を見せてくれるようになっていたし……
そして今日。
どう断ろうか? はっきり言っても大丈夫か? と悩んでいたところに、彼女が帰ってきた。
彼は無意識に、彼女を巻き込むことにした。
すると意外にも、すぐに状況を察して話を合わせてくれた。
お見合い相手は案外あっけなく信じて帰って行った。去りかける紗栄の腕をつかみ、つい引き留めてしまった。そして気が付けば、突拍子もないことを申し出ていた。
もっともらしい屁理屈に彼女は疑問を呈することなく、抜き打ちモニター(=ただ飯)につられて恋人のふりをすることに承諾した。
とっさにバイトしないかと言ってしまったけれど、あとになって金はいらないと言ってきた。その理由がまた、彼を感動させた。金での関係が世間に知れれば、彼の社会的地位に傷がつくだろうと。
(やばい。かわいすぎる)
名前を呼ばせてみたら、これも破壊的だった。
彼女は、おとなしく従順な女には程遠い。天井を向いてあははと笑うし、大きな目に涙を一杯にためて彼を睨みつけてくる。
家業の洋食屋を守ろうと必死で、料理教室の生徒たちを熱心に面倒見る。
昨夜は、嫌な気分になった。
焼き鳥屋でてのひらを合わせる紗栄と吉川和真を見てムカついた。
さらにあの能天気な男の数々の暴言に、殴ってやりたくてうずうずした。
瑛士のいらいらを敏感に察した秘書の財前は、吉川和真を無理矢理に連れ去ってくれた。
さっき、「他の男と二人きりででかけるな」と言っておいた。我ながらうまく約束させたと瑛士は思った。
そして場慣れするために、夕飯を一緒に食べに行こうというと、案外すんなりと肯定的な答えが返ってきた。今彼女は、着替えに行っている。
(そうだ、俺も着替えないと)
彼は頭を起こし、急いで寝室へ向かった。
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自分の部屋に戻りまた外出するのに着替えを選びながら、私は鏡の中の自分を見てふと手を止めた。
あれ?
どうして、こんなことになったんだろう?
私は彼を毛嫌いしていたはずなのに……
しかもバイト代をくれるって言ってたのに、自分からお金はいいって断るなんて、私ってばかじゃないの?
「……」
いや、人間、分不相応に欲を出さないほうがいい。
今の私には、高柿先生からのお給料(今月が初月給)とこのゴージャスな住まい以外、何もない。でもその二つがあるだけで最強だ。しかも、サペレ系列の様々なお店の様々な料理の抜き打ちモニター! もうそれだけで、幸せ。
(カノジョの振りくらい、なんてことないわ)
お昼は懐石料理、夜も何か期待できそう。なんて、幸せ。
それに……
あの人とふたりだけでご飯に行くのも、べつに嫌じゃないし。
むしろ、楽しいかも。
ああ、何を食べに行くのか訊いてくれば、服も選びやすかった。さっき交換したSNSで訊いてみようか。
『ドレスコードはなに?』と送ると、すぐに返信が来た。
『スマートカジュアル』
やっぱり、訊いたほうがいいよね。
私はもう一度クローゼットを物色した。
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