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第49話
「おしおきよ。ちょっと焦りすぎたのね、今回のとよしま亭の買収の仕方が、私は気に入らなかったの」
「はあ。私へのおしおきかと思いました」
「あらやだ。あなたに何の非があるの? あなたにおしおきなんてしないわよ」
「家まで隣じゃないですか」
「ほほ。それはほら、たまたまよ。目をかけているからこそ、あなたもあの子も愛莉さんも大切なの」
うーん。なんだかうまくはぐらかされている気もするけど……ま、いいか。
料理が運ばれてくる。
湯葉や豆腐が中心の懐石料理だ。
それからは来週教える予定のポークソテーの話や、今後の授業の予定、各自の評価などについて話した。先生のリクエストで、イタリアでの修行の話もした。先生は始終陽気で、私の話にたくさん笑ってくれた。
「ああ、お酒も入っていないのに、久々にとても楽しかったわ。時々こうしておしゃべりしましょうね?」
「はい。いつでもお付き合いします。静乃女将のお店、名前が雰囲気にぴったりでした。料理も繊細で美しくて、感動的でした」
「あら、お若いのにあの店の名前の由来を知っているのね?」
「王維の漢詩ですよね。一人でいるの大好きっていう詩。高校の時授業で習って、たまたま覚えていただけですけど」
「感心だわ。料理人には、幅広い教養がないとね。さあ、ついたわ」
車は私の住まいの前に停まる。
ごちそうさまでした、と挨拶をして、さらさらと小雨ふる中に滑り出す車を見送った。階段をゆっくりと上がりながら、先ほどの芸術品のような料理を一品ずつ思い出す。
ん?
階段を上り切ったところ、人の気配に気づく。お隣のほうを見て、私は小さく息をのんだ。
ドアの前に立つ、藤倉さん。
白いTシャツにジーンズ、紺色のロングカーディガンというラフなお姿。髪も普段は後ろに流しているのに今日は自然なまま、前髪が顔にかかっている。かかとをつぶしたスリッポンのスニーカー。出かけていた恰好じゃない。
その前に立っているのは、見知らぬ若い女性。白いミドル丈のワンピースにベージュのスプリングトレンチコート。グレージュのパンプスに、アイヴォリーのハンドバッグ。右手に持った赤い傘からは、雨のしずくが床に垂れている。
あら。
これは……
カノジョかな?
私はにたりとしながら軽く会釈した。
が。
藤倉さんが、すがるような視線を向けてきた。
なによ?
私は首をかしげる。
「あの……?」
女性が藤倉さんを見上げ、静かに何かを言いかける。
すると藤倉さんは私に向かって言った。
「お……おかえり、紗栄!」
はい?
「先生とのランチは楽しかったか?」
女性は私をきょとんとした表情で見ている。その後ろで、藤倉さんが必死の形相で私に目配せをしている。ははあ。カノジョではないのか。
しかたがないな。
黒毛和牛のしゃぶしゃぶのお礼に、合わせてあげようか。
私はにっこり笑顔を浮かべてお隣さんのドアのほうに歩を進めた。
「楽しかった。ごめんね、お土産を買ってこなくて。でもこのあと一緒に出掛けるからいいかと思って」
藤倉さんの顔に安堵が浮かぶ。
「あ、ああ。構わないよ。雨に濡れなかったか?」
彼は私の腕に触れ、そっと自分に引き寄せた。
「お客様?」
私は柔らかく女性に微笑んだ。女性は会釈する。
彼女が言葉を発する前に、藤倉さんは彼女に優しく言った。
「ほら、嘘じゃなかったでしょう? だからお断りしたんです。わかっていただけましたか? 彼女はここで私と一緒に暮らしてるんです。そうだよな? 紗栄」
ははは。確かに、住所は部屋番号前まで一緒だけどね。
私は彼女にそっと背を向けて、藤倉さんの腕に頭を預けた。
笑いを堪えている顔を、見られないようにこくこくと無言でうなずく。
お見合い相手かな。しかも、断った相手。
女性は小さなため息をついた。
「わかりました。すみません、突然押しかけて。失礼します」
会釈すると、彼女は階段を下りて行った。
「……」
「……」
コツコツコツ。
階段を降り切って、道に消えてゆく軽い足音。
ちら。
見上げると、疲れ切った表情。
「……ありがとう」
「いえ。では」
去りかけると、突然左手首を捕まえられる。
「ちょっと待って!」
「なんですか?」
「ちょっと。どうせ暇人だろう?」
「うわぁ。失礼な発言!」
「いいからちょっと、来て!」
……というわけで。
自分の部屋に戻る前に隣に拉致られた。
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