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第35話
藤倉さんはまっすぐに私を見つめた。
「取り上げるつもりはなかったんだ。もしもあなたが継ぐとわかっていたら。申し訳ないけど、あなたの兄に権利があるとわかったから、変なところに売られる前に俺が買ったんだ。あの店をつぶしたくなかった。その点では、俺たちは同じ意見だと思うんだけど?」
「えっ?」
今、何て言った?
「とよしま亭には個人的な思い入れがあるって言っただろう? もしも買収前にあなたが日本にいてあとを継ぐと意思表示しておいてくれたなら、あなたも引き抜いた。でもタイミングが悪くて、店だけ買収したんだ。すでにシェフも見つかっていたし……」
私は彼のコートの袖をつかんだ。
「ちょ、ちょっと待って! 変なところに売られる前にって……? まさか、あいつ……兄は……」
藤倉さんはこくりとうなずいた。
「先代……あなたのお父さんは、とよしま亭が自分の代で終わるかもしれないと思っていたみたいだ。息子に店を継がせることを半ばあきらめたまま店の権利を譲渡したんだ。彼は調理はできないし、経営の知識もなかった。だから家族には内緒で半年くらい前から店の売却先を探し始めていたんだよ」
「そんな。あいつ……!」
「うちでその情報を得て、それで買取を申し出た。それが去年の暮れごろだ」
「……」
千尋の奴、そんな前から。私には、何も知らせずに……いや、私に言えば猛反対するに決まってるから、言わなかったのだ。
「豊嶋紗栄さん。今回の買収は俺も焦っていたこともあって、あなたの意志まで調査が及ばなかった。やり方がよろしくなかったと、高柿先生から苦言を聞かされた。でも決してあなたからとよしま亭を取り上げるつもりはなかったし、あなたの気持ちをないがしろにしたわけじゃない」
「だったら……」
「個人的な感情だけで今更どうこうできるわけじゃない。すでにプロジェクトは進行していて、何百人もの人たちが動いている」
「……」
「おれはあなたと敵対するつもりはないんだ。あなたが、あなただけが、とよしま亭の味を受け継いでいるならなおさらだ。レシピを狙ってると思われるのも心外だ。だから今後はあなたに信頼してもらうために、できるだけ努力するつもりだ。もしかしたら相互に納得できる解決策が出てくるかもしれないから」
私は下唇をぎゅっとかみしめた。
下あごに力を入れていないと、涙が出そうだった。
あまりの寒さに、体が小刻みに震えた。でももしかしたら、涙をこらえていたせいもあったかもしれない。なにか言い返そうと思ったけれど、口を開けば顔が緩んで涙が出そうだったから何も言えなかった。
藤倉さんは浅いため息をつくと自分の首から外したグレーのカシミアのマフラーを、私の首にぐるぐると巻き付けた。ふわりと、温かいアンバーが香る。
どうして?
どうして……
冷え切った手を、大きな温かい手が包む。手を引かれ、凍てつく石畳の上を歩き出す。ゆっくりと、歩幅を合わせてくれている。
目の下まで巻かれたマフラーは温かいけれど、視界が狭まる。
でも、なぜか不安はない。
温かい手は、なぜだか大きな安心感があった。
それから10分くらい、家に着くまで無言で歩いた。
階段を上って、ドアの前で気づいた。
「あ、これ……」
ぐるぐるに巻きついたマフラーを外そうとすると、藤倉さんはふと小さく笑んだ。
「明日あたり、ドアノブにかけておいてくれたらいいよ」
それじゃ、といって彼はドアの内側に消えた。
そうだよね。
私の化粧がついてしまったかもしれないから、ちゃんときれいにして返そう。
玄関に入り、姿見を見てぎょっとする。ハロウィンのミイラみたいに、目の下までぐるぐる巻き。後ろ髪もぐちゃぐちゃに巻き上がってる、ひどい姿!
鏡の中の自分を見て思わずふっと笑ってしまった。
マフラーを解く。ふわり。静電気で髪が宙に舞い上がる。
一方的に敵視していた私って、ばかみたいだったかな? 違法な取引でも何でもなかったのに逆恨みして。
お父さんが、自分の代で終わるかもしれないって思っていたなんて……知らなかった。
どうして……どうして? たった一言でも、私に言ってくれればよかったのに。
「紗栄、とよしま亭はお前に任せるよ」って。
私はそれからしばらく、玄関に佇んだまましばらく放心状態で涙をぬぐい続けていた。
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