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第32話
「っ……?!」
背後からふわっと、微かに温かみのあるジャスミンとアンバーの香りがする。
「しっ!」
大きな手が口元をふさぐ。
――たいして親しくはないけれど、なんかわかった。
「……」
こくりと小さくうなずいた。すると手は私を解放した。首をひねって振り返ると案の定、それは私の天敵・藤倉さんだった。
「……なんなんですか?」
非難がましい口調で抗議したが、藤倉さんは私を見てはいなかった。
頭上のその視線の先をたどってみて、私はぎょっとした。
「なっ……!」
ビルの入り口の脇で、一人の細身の男性がOL風の女性にマフラーの首元を掴まれて、がくがくと前後に揺すられている。
こちらからは女性の顔しか見えない。アラフォーかな?
ちょっとぽっちゃりの……こ、個性的な顔の、青いブークレのコートに茶色のショートブーツの女性。
そして……顔は見えないけど、その女性に揺すられて頭が前後に激しくがくがくともげそうに揺れている男性は、あのミドル丈のネイビーのステンカラーコートにチャコールグレーの斜め掛けバッグは……うちのクラスの田所さん‼
私は口をパクパクと動かして目を見開いて、背後の藤倉さんを見上げた。
彼は左手の人差し指を立てて声を出さないよう私に指示するけれど、視線は田所さんと女性から離さない。
女性は田所さんをガクガクと揺らし、息切れしながら彼を責めた。
「——なによっ! 最近毎週金曜日になると定時に退勤してどこに行くのかと思えばっ! 正直に言ってよ! 見たわよ! あの先生が目当てなんでしょ?!」
へっ?
ま、まさか……私のこと?!
「ちっ、違うって、言ってるでしょう?! ていうか、どうして僕がきみに言い訳しないといけないのですかっ! はっ、は、はなしてくださいっ!」
ああ。前後に揺らされながら必死で叫ぶ田所さん、間違って舌を噛んだら大変だ。いつもきれいにセットされている髪が乱れまくっている。
優秀な研究者の頭がおかしくなったらどうするの、てか、あの女性は誰なの?
「私のほうからわざわざお付き合いしてあげるって言ってるのに、あなた、断れるような立場だと思ってるのっ?!」
女性が声を荒らげる。
「ぼっ、僕はお断りしたはずですっ! きみのことは、同僚以上には考えられませぇぇんっ!」
はは。なるほどね。
私は口を開けたままこくこくとうなずいた。
どうやらあの女性は会社の同僚で、田所さんはお付き合いを迫られて断った、と。女性はあきらめきれず、彼を尾行して料理教室通いを突き止めた、とね。
「なによぉっ! どうせ田所さんなんて、女子に見向きもされないくせに! あんな先生、高望みしすぎでしょ! ちょっと理想が高すぎるんじゃないのっ!」
はぁ。なんで、そうなるのよ。
そろそろ助けてあげませんか? という意味で藤倉さんを見上げて二人のほうを指さすけれど、藤倉さんはちらと私を見下ろして首を横に振り二人の背後の舗道を指さした。
ん?
その指先をたどって見てみると……
カツ、カツ、カツ。
ローヒールのパンプスの大股の足音。
がばっ! と下から二人の間に潜り込み、ぐいっと腕を広げて割って入ったのは……
愛莉ちゃんだ?!
「!」
私は息をのむ。
「もうそれくらいにしてもらえますか? 田所さんが嫌がってるでしょう?」
淡々とした、ロボットのような口調。でも、迫力がある。女性はその異様な口調と断固たる大胆な仲裁法に怯む。
「だ、誰よ、あなたっ!」
「あっ、松原さん!」
田所さんが叫ぶ。
「……あなた、さっきの教室にいた人ねっ⁉ 邪魔しないでくれますか?」
「あなたこそ、嫌がられてるのにしつこいですよ」
「なっ、なによっ!」
あっ! 愛莉ちゃん、あぶないよ!
私は息をのむ。
女性が自分のハンドバッグを振り上げた。
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