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第18話
お父さんの初七日が終わり、お母さんの引っ越しも済んだ。
腹は立つけれど、家の引き渡しをしないといけない。印鑑証明や固定資産評価証明書をサペレに渡すために、家で片瀬さんを待つ。
生れたときから暮らした古い家だけど。
あちこちにいろいろな思い出がある。私物が無くなった見慣れた家を見ていると、切ない気持ちでいっぱいになる。私の生まれ育った家はもう、私の家ではなくなるのだ。
「お待たせして申し訳ございません」
縁側でぼんやりと家族の思い出に浸っていると、申し訳なさそうに片瀬さんが現れた。
必要書類の入った封筒を彼女に渡す。茶の間のテーブルでそれらを広げて彼女はミスや漏れがないかを確認する。初めに免許証を見せられたが、彼女は宅地建物取引士の資格があるらしい。
「片瀬さんは宅建をお持ちなんですね」
「はい。弊社は建物の買収案件も多いので、総務部に有資格者や業界経験者が数人おります」
「秘書さんなのかと思ってました」
「ああ、私は違います。副社長の秘書は別におりまして、今回は別件で動いております」
「そうなんですね」
冬の庭の景色は寂しい。
ぼんやりと梅の木を見つめていると、片瀬さんがそっと教えてくれた。
「家も庭も、何もかもそのまま残すと副社長が申しておりました。こんなこと、紗栄様には何の慰めにもならないかもしれませんが……」
私は彼女の優しさに微笑んだ。
「ありがとうございます」
そう。何を言っても、もう終わったことだ。千尋が契約書に判を押した。その時に終わったのだ。
もう少しだけ庭を見てから帰ります、と片瀬さんを見送り、私は亡くなったおじいちゃんのお気に入りだった、池のほとりの小ぶりの岩に座りぼんやりする。
豊嶋家は、赤の他人の持ち物になってしまった。おじいちゃん。おばあちゃん。お父さん。こんなことになるって、想像したことあった?
この岩に座ったおじいちゃんの膝の上に座って、池の鯉に餌をやったっけ。あっちの飛び石では足をくじいて転んで額を打って、血が出て大泣きしたっけ。いろいろなことが思い浮かぶ。
「豊嶋紗栄さん」
静かで、低い声。
誰かに呼ばれて、はっと我に返り、声のしたほうを振り返る。
「……」
私は自然と渋面になる。不快に眉をゆがませると、そこに立っていた藤倉瑛士は皮肉な苦笑を口元に浮かべた。
「片瀬さんは会社に戻られましたよ?」
私の口調が皮肉過ぎたのかもしれない。彼は深いため息をついた。
「知っています。あなたを探していたので、彼女からまだここにいるかもしれないと聞いて来てみたんです」
「はぁ。私に何の御用でしょうか?」
「……先日あなたが弊社でおっしゃっていたことについて」
「なんのことですか?」
私はわざとはぐらかした。すぐにわかったけど。
「とよしま亭のレシピです。それはどこにあるんですか?」
私は唇の端を上げた。
「教えるわけないでしょう? 残念ながら、契約書作成時にはレシピのことまで気が回らなかったみたいですね」
「すべては順調なんです。大手のホテルの料理長を引き抜きました。メニューの料理すべて、復元できます。でも試食しても改良しても、どうしてもとよしま亭の味にはなりません」
「当たり前でしょう? その人はうちの味を、知らないんだから」
ああ。だめだ。怒りと、悔しさと悲しさがこみあげてくる。私は自分の親指をぐっと握り締める。
彼は飛び石の上で私に向かって頭を下げた。
「どうか、お願いします。レシピを弊社に……いえ、私にお売りください」
私は奥歯を食いしばる。だめだ。この男の前ではもう泣きたくないのに。声が、震える。
「——……です」
「えっ?」
彼は頭を上げて私を見る。私は彼を睨む。涙を流しながら、震える声で、口元に皮肉な笑みを浮かべながら言う。
「無理、ですよ。レシピは……ここ、ここにあるから!」
私は情けない泣き顔のまま、自分の頭を差して言った。
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