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第13話
高柿ふみ子の執務室の扉がノックされる。
「先生、お約束のお客様がいらっしゃいました」
秘書の牧田がいつもの落ち着いた口調で告げる。
黒い本革のプレジデントチェアに座り、重厚なデスクで老眼鏡をかけて書類に目を通していた老女は、老眼用の眼鏡をずらして上目で秘書を見てにっこりと微笑んだ。
「お通しして頂戴」
牧田秘書がドアを開け、道を開ける。
コツ。コツ、コツ。靴音が大きな歩幅で響く。
客人が入室すると、牧田秘書は頭を下げてから退出してドアを閉めた。
高柿はにっこりと社交的な笑みを浮かべる。
「久しぶりね、さ、お座りなさいな」
ソファセットのローテーブルにはすでにティーカップとポッドで紅茶を入れる準備が整っている。
「……はい」
ため息をついて、藤倉瑛士は老女の言葉に従ってソファに腰を下ろした。
彼は慣れた手つきでティーポッドカバーを取り、ふたを開け、茶葉入れから二人分の茶葉を入れる。少し蒸らしてポッドを手に取り、高い位置からちょろちょろと紅茶をカップに注ぐ。
その様子を高柿はにこにこしながら観察している。
「どうぞ」
瑛士は無表情のままカップを料理界の重鎮に差し出す。
「ありがとう」
彼女はそれを手に取る。
カップを持ち上げてまずは鼻先でその香気を肺いっぱいに吸い込む。ベルガモットのさわやかな香りが彼女の鼻孔をくすぐった。
「最近」
彼女はずずっと紅茶を一口すすった後に言葉を発した。
「とよしま亭を買い取ったそうね」
「はい」
瑛士は自分用に紅茶を注ぎながら微かにうなずいた。
「でも、やり方がよろしくなかったようね」
「……正式な手順を踏みました」
「そうね。法律的にはね。でも、息子はお金をすべて持って消えたらしいわよ?」
「えっ?」
初めて、瑛士が表情を変える。
「契約で得たお金だけでなく、妹が母親に預けておいたお金まで拝借して、何倍かにして戻るからと言って消えたって」
「——あいつ!」
瑛士の目に怒りの色が浮かぶ。
「間接的にあなたは、未亡人とその娘を窮地に追いやったのよ。私はそんな人の頼みは、聞いてあげられそうにないわ」
「そんなっ……先生! あの件はまた別の話でしょう?」
瑛士は納得いかないという顔をして反論する。
「私は十分な額を支払いました。契約金を独り占めしたのは私のミスではなく、あいつ……豊嶋千尋のやったことです」
高柿はふんと鼻で笑う。
「頭のいいあなたが、彼の性格からしてそういうことをやらかさないか想定できないことはなかったはずよ。契約金の受け渡しについては一括で翌日彼の口座に振り込む以外に何か考えるべきだったわね」
「……」
瑛士はカップのソーサーに視線を落とす。
数日前に彼の執務室に乗り込んできて必死で契約無効を訴えていた女の泣き顔を思い出す。
(俺は、悪くない)
彼は膝の上で拳をぎゅっと握りしめる。
高柿はずずっとふたくち目をすする。
「あなたの商売のやり方に口を出す権利は私にはないわ。でも、気に入らない。だから私が、未亡人と娘を助けることにしたの。彼女らを路頭に迷わせるわけにはいかないわ。恩人の遺族ですもの」
「……」
瑛士の目に、少し安堵の色が浮かぶ。肩が、微かに落ちる。
「でも」
高柿の目が、まっすぐに目の前の瑛士を射抜く。
「あなたのやり方は看過できない」
「……先生」
高柿はカップをソーサーの上に戻し、ソファの背もたれに深く体を預けた。
「前からあなたが提案していた件だけど。ムカついたから、受けたくなくなったわ」
80代の淑女の口から「ムカつく」という言葉が出て、瑛士ははっと息をのんだ。
「それは……!」
(数億円のプロジェクトなのに!)
瑛士は思わず立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。脳裏には豊嶋紗栄の怒る泣き顔がちらつく。
高柿は細く華奢な手をひらひらと振って言った。
「落ち着きなさい。契約はまだだけど、誰も受けないとは言ってないわ。でも」
彼女はにやりと口元に笑みを浮かべた。
「あなたの依頼を受けるのに、条件をひとつ出すわ」
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