救世主と悪魔の取引

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第9話

メモに書かれていた名前を見て、私は口をぽかんと開けっぱなしにしてしまった。



   高柿 ふみ子



携帯電話の番号も名前の下に書いてある。



「こ、これは……あの、私が知ってる高柿ふみ子先生で合ってるかな……?」



「料理研究家の高柿先生で合ってるわね」


「うそ……こんな、雲の上の人がどうしておじいちゃんの知り合いなの?」


「昔、同じ店で修行したことがあったらしいわ。その頃は女の料理人なんて、厨房では差別を受けていて大変苦労なさったのよ。おじいちゃんは彼女の実力をいち早く認めて、彼女を助けていたんですって。それ以来の交友があったらしいわね」


「信じられない……じゃあ、私に牛刀くれたのが、高柿先生だったってこと?」


「ええ」


「えええええぇぇ……」


まじめに驚いた。




高柿ふみ子。今年83歳の料理評論家。そして私の母校の名誉教授。高柿調理専門学校を始め、全国に17校の調理学校を開いている。料理家であり評論家であり、教授であり栄養学博士でもある。テレビの料理番組にも出るし、彼女がおいしいと言った店は必ず大繁盛する。誰もが認める、料理界の重鎮。



戦後、極貧の中で育つ。


母親は早くに亡くなり、父親は飲んだくれで酔うと子供たちを殴る。何も食べるものがなくて、幼い弟を餓死させてしまったことがあった。大きな料亭の下働きから辛抱強く奉公して、凄腕の料理人になった。


和食を極めた後もさまざまな料理に挑戦していった。


料理の腕が認められ、各界の要人たちの晩餐を手掛け、外国の王室の賓客のために腕を振るったこともある。


生涯独身を通し国の栄養と料理の進歩のために人生を賭した、そんなすごい人。それが彼女のオフィシャルなプロファイル。




「正直、ちょっと心苦しいけどね。背に腹は代えられないでしょ。今回は思い切って、甘えさせていただきましょう」


お母さんはため息をついた。でもその表情は不安というよりも安堵の色が濃く表れていた。


そりゃあそうだよね。夫を急に亡くし、息子は金をもって行方をくらました。心細いよね。わたしが、しっかりしないとね。


私はメモに視線を落とし、お母さんのか細い字をじっと見つめた。そして決心する。


「わかった。皿洗いでも芋の皮むきでも、何でもやるわ。じゃあ、出かける準備をするね」




小さなころ遇ったことも、15歳の誕生プレゼントのことも記憶にない。


私が初対面だと認識していたのは、大学での栄養学の講義の時だ。10年くらい前だったけど、70歳くらいとは思えないほど背筋がピンと伸びた美しいひとだった。高い地位にいてみんなに尊敬されるのに、おごらず、気取らず、20歳前後の小娘たちに対しても敬意を払って接してくれていた。


あの人に、また会えるなんて。


しかも、窮地に手を差し伸べてくれたのが、憧れのひとだなんて。



おじいちゃん、ありがとう。



私は冷水で顔を洗って気合を入れた。



お母さんは私が守る。



前に進むしかない!

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