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第8話

氷に冷やして絞った冷たいタオルで瞼を冷やし、お母さんが作ってくれたじゃこと高菜のチャーハンを食べて、なんとか心が落ち着いてきた。


二人で居間のソファに座って、テーブルの上にはいろいろな証書や通帳などを乱雑に広げてある。


「——とりあえず、私がどこかで働くよ。ミラノで働いていたリストランテのオーナーにメールして、推薦状を書いてもらう。それがあればどっかのイタリアンレストランかホテルのリストランテで働けるでしょ。あるいは、管理栄養士としてどっか行ってもいいし」


「そのことなんだけどね……」


お母さんはお葬式でのことを話し始めた。




お父さんは、肺がんだった。


定期健診では一度も引っかかったことはなかった。


ここ一年で急激に悪化して、自覚症状も深刻に現れないまま死に至ったらしい。



とよしま亭のシェフが、まだ60歳の若さで急死した。



政治家や芸能人もお忍びで通う店である。街の小さな洋食屋と言えど、知名度は高く人脈も広い。


葬儀には多くの人々が訪れた。喪主は長男の千尋。



すべてが終わり、人々が墓地から去って行くときに、ある人物がお母さんに声をかけた。



「そのかたを見て、とても驚いたわ。芸能人や政治家を見るよりも驚いたのよ。すごく久しぶりだった……」


「だれ?」


「おじいちゃんの昔の知り合いでね。今は料理研究家として有名な方よ。時々、とよしま亭にもいらしてたの。その方がね、もし困ったら、遠慮なく連絡してほしいって言ってくださったの。だから今朝、千尋の置手紙を呼んだあと、ご厚意に甘えて電話してみたわ。それで、あなたとお話ししたいって」


「私と?」


「ええ。紗栄ちゃんと話がしたいって。あなたは覚えていないかもしれないけど……小さい頃、ペティナイフでおじいちゃんと料理のまねごとをしていたでしょ? 今はご多忙で全くいらっしゃられないみたいだけど、その頃は時々、おじいちゃんを訪ねていらしてね。あなたの包丁さばきを筋があるって褒めていらしたわ」


「誰なの? 私の知ってる人?」


「ふふふ。あの方を知らない料理人はいないはずよ。あなたの15歳の誕生日のプレゼントのドイツ製の牛刀、あるでしょ? あれをくれたのがその方よ。年頃の女の子が誕生プレゼントに包丁を欲しがるなんて、って。大笑いされてたわね」


「ええ? あれが誰がくれたかなんて、全く知らなかったよ。おじいちゃんだと思ってた。あれは手に馴染んで使いやすい。いまだに愛用してるしね」


「子供にはもったいないくらいの逸品よ。その方はね……あ、さっそく。ちょっと待ってね」


お母さんはブーブー鳴るスマホをスワイプして耳に当てた。


「もしもし、ああ、どうもお世話になります……ええ、ええ、ありがとうございます。ええ、伝えます。はい。では失礼します」


電話なのに、ぺこぺこと頭を下げてお母さんは通話を終えた。


そして画面を操作してメモ用紙に何やら書き写して私に渡した。



「秘書の方からだったわ。今日の午後三時、ここにその方をたずねて行って。あなたにお仕事を下さるそうだから」


「えっ? いきなりそんなおいしい話に? だから一体、誰な……はぁぁぁ?」


メモ帳を見て私は素っ頓狂な声を上げた。




嘘だ……何の冗談よ?




お母さんが差し出したメモには、信じがたい人の名前が書かれていた。

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