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第7話

「紗栄、どうしよう……」


途方に暮れた表情のお母さんが、遠慮がちに私の部屋に来た。


泣き腫らしてパンパンの瞼の私に、お母さんは一枚の紙切れを差し出した。



およそ三十路アラサー男の筆跡とは思えない丸っこいかわいい文字で、『母さんと紗栄ちゃんへ』と書き出されていた。




俺には料理の腕も経営の才能もない。

だから店をもらっても困るよ。

紗栄はもう後を継ぐとか言い出さなくなったから、諦めて外国に行ったんだと思ってた。

だからあんなに怒りまくるとは思ってなかったんだ。

とろこで、店を売った金なんだけど。

ちょっと俺に預けてほしい。

2年以内に数倍にして返すからさ。

ついでに、紗栄の貯金も借りるよ。

待ってろよ。俺が店を持たせてやる!

それまで、帰ってこないから。

じゃ、元気でな。   ちひろ




「あー」とも「きゃー」とも「きぃぃ」とも区別のつかない叫び声をあげて、千尋の書置きを丸めて床にたたきつけてどすどすと踏みつぶす。


「この大バカやろうがっ!!」


豊嶋家の暢気なブラックシープは父親の初七日も過ぎないのに、金を持ち逃げしたのだ。


「お前が金を稼ぐの待つより、私が直接店始めるほうが確実だっつーの! バカなうえに脳みそ腐ってんのかっ!」


床に寝転がって手足をばたつかせる。はらわたが煮えくり返るとは、まさにこのことらしい。契約で得た金すべてだけでなく、私がイタリアへ行く前にお母さんに預けておいた通帳とカードまで持っていくなんて。どんな鬼畜よ。あんな出来損ないに何ができるって言うのよ?


まただまされて食い物にされるだけに決まってる。


大暴れする私の傍らで、お母さんは床に座り込んでうなだれている。これからお母さんと二人、どうやって生きて行けというのか。


「幸い、がん保険に入っていたから……審査が通れば保険金が下りるはずよ。それまで、どうしましょうか。この家も出なくてはいけないし……」


うちは大正建築の一軒家で部屋数が多くて維持費もかかる。とよしま亭と同じ敷地内に立っていて、実はこの家も契約書に含まれていた(千尋は本当に大バカ!)。家はカフェか何かに改築されるらしい。




「いつ、出て行けって?」


私はガラガラの声で訊いた。


「ひと月は猶予を与えてくれたわ。いらないものを処分したり、遺品を整理したりするために。お父さんの初七日や四十九日は、お兄ちゃんがいなくなったから、私と紗栄がやらないとね。はぁぁ。頭が痛いわ」



ああ。


だめだ。


泣き叫んでる場合じゃない。


お母さんは私が支えないと。



私は暴れるのをやめて立ち上がった。


「顔、洗ってくるよ。今後のことを一緒に考えよう。私が何とかするから……心配しないで」


お母さんは泣き笑いして顔をくしゃくしゃにした。


「うん、うん……そうだね、何とかしないと」




そう、なんとか、しないと。

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