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第6話
副社長は浅いため息をついた。
「紗栄さん。契約書を御覧になったでしょう。もうすでにうちのとよしま亭に関するプロジェクトは動き出しています。この後もその会議があります。十分な金額をお支払いしてあるので、それでご自身のお店でも開店されるとよいでしょう」
「なっ……!」
私が跡を継ぎたがっていたこと、知ってた?
膝の上に置いた両手をぎゅっと握る。怒りで、小刻みに震える。
「文化財なので、つぶしたり改築したりしません。修繕はするとは思いますが、なるべく原型を維持します。名前も変えることはしません。私にも個人的な思い入れがある店なので、悪いようにはしないつもりです」
「……」
悔しくて悔しくて、涙があふれ出てくる。私が泣いたって、何も変わらない。わかってる。でも、感情が高ぶって自分ではどうしようもない。
千尋は隣でそわそわしている。副社長の顔色を窺っているみたいだ。
副社長は感情を現さないですっとハンカチを差し出した。私はそれを受け取らずに勢い良く立ち上がった。二人は驚いて私を見上げる。
「——契約書を一晩かけて、熟読しました。何度も何度も読んで、確認しました。でも、ひとことも書いてなかったので、あえて言わせていただきます」
私は手の甲で涙をぬぐって、鼻をすすって歯を食いしばってから震える声で力強く断言した。
「お、お店は奪われても、レシピだけは絶対に渡しませんから‼」
千尋も副社長も、目を見開いて驚愕した。
私は頭を下げると千尋の腕をつかんで副社長室を大股で出て行った。
ああ。
こんなことって。
ひどい。
ひどすぎるよ。
こんなに呆気なく、とよしま亭が他人の手に渡るなんて……
帰り道、千尋はびくびくと私の様子をうかがいながら、無言で運転した。
家に着くとお母さんが玄関先に出てきた。
「だめ、だったでしょ?」
遠慮がちに心配そうに聞いてきたけれど、私はお母さんに何も答えずに脇をすり抜けて自分の部屋に向かった。
お父さん。
どうして私じゃダメだったの?
千尋に売られちゃったじゃない。
他人の手に渡ったら、名前が同じでももう私たちのお店じゃないんだよ?
お父さんは、それでもいいと思っていたの?
私に継がせるって選択肢は、絶対にありえなかったの?
私は大声で泣いた。
多分、赤ちゃんの時以来だったと思う。
床に突っ伏して、ベッドにもたれて、壁に寄りかかって身を縮めて、自分の部屋のあらゆる場所でのたうち回って一日中泣きわめいた。昼ごはんも夜ご飯も食べずに泣き続けた。夜中には、涙も声も枯れ果てていた。
悔しい。
もしも私が、男だったら。
男だったら、継がせてくれたの?
――そして翌朝、最悪な事態はさらに最悪になった。
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