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第5話
「会社の場所、知ってるんでしょ!」
私は眠くて文句を言う千尋に、車のキーを投げた。白いポロGTI。こいつ、万年フリーターのくせにこんな高級車乗ってるなんて。うちの両親は千尋に甘すぎる。苦労させないから、バカが増長するのに。
久しぶりにちゃんとした格好をした。白シャツに紺のパンツスーツ。手には契約書の入った封筒を握りしめている。
「もう何言っても手遅れだと思うけど。契約書交わしちゃったんだからさ」
「うるさいっ!」
やれやれ、と千尋は首をふる。
40分ほど走ると、千尋は大きなビルの地下駐車場に入った。
受付で名乗ると、少々お待ちくださいと言われた。5分ほどでベージュのスーツ姿の二十代半ばくらいの女性がやってきた。千尋が頭を下げる。彼女も頭を下げる。
「総務部の片瀬と申します。副社長室へご案内いたします。」
重役専用エレベーターで27階に上がる。
副社長室のプレートの付いたドアを片瀬さんがノックする。「どうぞ」という低い声がしてから彼女がドアを開ける。
「失礼いたします。豊嶋様をお連れいたしました」
正面の大きな窓から朝日が差し込んでいる。
逆光でよく見えないが、大きなマホガニーの机があって、そこから誰かが立ち上がった。
千尋が頭を下げる。
「おはようございます。昨日はお世話になりました」
靴音がこつこつと響く。ソファセットを手で示してその人は言った。
「おはようございます。こちらこそ、お世話になりました。どうぞおかけください」
昨夜ネット検索して把握していたけど、実物は……なんだこのすごいオーラ。
しかも。
朝日の中から現れた、そのさわやかな姿。完璧すぎて、引く。
「名は体を表す」とはよく言ったものだ。藤倉瑛士。瑛士とは、「美しい男」を意味する。
彼が経済誌によく取り上げられるのは、才能のせいだけではないらしい。その圧倒的で完璧なビジュアル。
まあ、私には敵に見とれているどころじゃないけれどね。
「……」
おとなしくソファに千尋と並んで座る。片瀬さんがコーヒーを運んできてまた出て行った。
部屋には、私たち兄妹と、藤倉副社長だけ。
「急なお願いにもかかわらず、迅速に対応していただいてありがとうございます。わたくし、千尋の妹の紗栄と申します」
私は軽く頭を下げる。藤倉副社長はふ、と笑みを浮かべて「存じ上げております」と言った。
「単刀直入に申し上げます。この契約は兄の錯誤です。昨日の契約を取り消していただけないでしょうか?」
副社長は首を横に振った。
「残念ながら、いたしかねます。契約は正常に執り行われました。お兄様の千尋さんはご自身で判断できる成人です。すべてを理解されて、押印されたのです」
柔らかながら、有無を言わさない理路整然とした口調だ。
「でも! 私が知らない間に売却なんて……」
「紗栄さんには契約を無効にする何の法的根拠もありません。売却の権利は千尋さんにありました。そして千尋さんはその権利を行使した。それだけです」
「とよしま亭は、家族の歴史が詰まった大切な場所なんです! 兄が経営する気がないなら、私が引き継ぎます。お願いです、返していただけませんか?」
私は必死で訴えた。
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