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第3話
「と、とよしま亭を、売っちゃったって?」
バカだとは思っていたけど、本当にバカだった!
私はテーブルの上の白い封筒をつかみ取ると、乱暴に中の書類をぶちまけた。一枚ずつざっと目を通し、押印してある一枚をつかみ取り、上から下まで注意深く読んだ。
「こいつ……マジで言ってるの? お母さん、なんで所有者が千尋になってたの?」
契約書を持つ手がぶるぶると震える。
母は右手で額を抑え、深いため息をついた。
「千尋の30歳の誕生日に、お父さんが手続きをしたのよ。万が一の時のためにってね」
私はテーブルを拳で叩きつけた。
すごい音がして、千尋がびくっと肩を縮めた。
「万が一って、こういうことのためじゃないよっ!」
「ひいひいおじいちゃんが始めて、四代も続いた家業を売り飛ばしてにこにこしてるなんて、あんたどんな神経してるのっ?」
「何代続こうが、俺は継ぐ気はないんだしお前も諦めたみたいだったし、どうしようもないじゃん。たかが小さな古い食堂だぞ? 価値のあるうちに欲しがってるところに売っちまったほうがいいに決まってるだろ?」
まったく悪びれる様子もなく千尋は首をかしげた。
「だ・れ・がっ! 諦めたって言った? なんで売り飛ばす前に私にひとことでも相談してくれなかったの?」
「だって……跡を継ぐって騒がなくなったから、諦めたんだろ?」
「なっ……!」
カ――ッと、 頭に血が上った。
お父さん。どうして私ではなくてこのバカにとよしま亭を託したの?!
私はテーブルに散乱した書類をかき集めて封筒にしまうと、立ち上がって兄とは認めたくないバカな男を睨み下ろした。
「これは預かる。明日、一緒にこの会社に行くからね!」
「行ったってもう、ハンコ押してあるし……」
「うるさい! しゃべるな! 明日9時出発!」
私は乱暴に居間の引き戸を開けて自分の部屋へ向かった。
明治の終わりに創業した小さな洋食店は、文化財に指定されている。だからレトロな雰囲気を楽しみたい、昔ながらの日本の洋食を楽しみたいというお客で、連日にぎわっていた。
雰囲気を楽しみたくて来店するいちげんさん、なんとなく来店してリピーターになる料理のファン、週に何回も通うご近所さん、記念日ごとにやって来る大ファン、様々なお客さんに愛されてきた。
白いテーブルクロス、座面と背面がえんじ色のビロード張りの猫足の椅子、艶やかな光沢のブドウの柄のダマスク織りのテーブルナプキン。きれいに磨き抜かれたカトラリー、窓辺に飾られた赤いベネチアガラスの水差しや、壁に掛けられたモジリアーニやユトリロの複製画。
生れたときから慣れ親しんだ、私の大好きな場所。
お客さんたちの笑いさざめきや和やかな話声。BGMは一切流れず、昼は窓から差し込む柔らかな光、夜は各テーブルの上のアルコールランプの暖かな光が作り出す、時が止まったような飴色の空間。
それを、すべて、売り払うなんて。
取り戻さなきゃ。
私は一睡もできずに久しぶりの自室で寝返りばかり打って夜を明かした。
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