第27話

ええと……ドレスはソファの上にかけられてあった。志希がしわにならないように置いてくれたのかもしれない。とりあえず、破れていなければ万事OKだ。



 下地とかファンデーションは持っていないので、パウダーと眉マスカラ、シャドウとアイラインでとりあえず「修繕」する。



 

   落ち着け、ソナ。まずは平静を装わなきゃね。




 ペチペチッっとソナは自分の両頬を叩いた。気合を入れて、いざバスローブ姿で戻る。


「……」


 志希はまだ眠っている。なんて美しい顔で。ソナとは大違いだ。先に目覚めてよかったと心から思う。



「向坂さん」


 呼んでみる。何の反応もなし。


「向坂さん」


 耳元で呼んでみる。ぴくりと眉が上がり眉間にしわが刻まれる。


「シキ!」


 大学時代の呼び方で呼んでみる。うっすらと瞼が上がり、切れ長の目がソナを捕らえる。


「……おう。目が覚めたのか」


 志希の口調も昔に戻っている。ソナは激しい動悸を強靭な精神力でごまかしながら、顎を上げて高慢な態度を取った。


「どうしてこういうことになったの? ……です、か?」



 今は上司、今は上司。ソナは心の中でそう唱え続ける。


 志希は目をこすりあくびをしながら答える。


「どんだけ飲んだんだ。お前が意識不明になったから、ここに寝かせて帰ろうと思ったら、帰るならゲロかけるぞって泣きわめき始めて」


「はぁっ? わ、私がそんなこと言うわけないじゃない! ……ですか」


 ゆっくりと上半身を起こした志希は、立てた片膝に頭をのせてくすくすと笑う。寝乱れた髪に疲れた顔がすごく色っぽくて、ソナは息をするのも忘れそうになる。


「なんなの? その中途半端な敬語は。日本語はうまくなったけど」


「に、日本に住んで働いてるから、当然でしょ……です!」




—―本当は違う。志希の生まれた国の言葉だから、すごく頑張って覚えたのだ。



 いや、それにしても……



 穴があったら入りたい。



 ソナはその日本語の意味を初めて実感することができた。



「昨夜お前に、十二年間の恨みつらみを聞かされた。いまだに俺を恨んでるって聞いてびっくりしたな」


「ええええぇぇぇっ?! そ、そ、そんなことっ……言いました……でしょうか……?」


 ソナの発する言葉は、次第に勢いを失ってゆく。最期は消え入りそうに小さくなる。




 終わった。




 そう思った。初恋の人に十二年もの間忘れられなかった、ずっと恨んでると喚き散らし(自覚がないのであくまで推定)、帰るならゲロかけるぞって脅すなんて。しかもこの人は今や上司で、毎日同じオフィスで顔を合わせなくてはいけないのに。


「ソナ」


 名前を呼ばれても青ざめたまま固まっているソナに、志希はもう一度呼び掛ける。


「ソナ」


 はっと我に返り、ソナは慌てて……青ざめたまま志希を見る。いっそのこと、塩をぶっかけてもらってナメクジのように溶けてしまえたらいいのにと心の中でのたうち回りながら。


「は、はい……」


「昔俺が言ったことを、もしかしてずっと気にしてたのか? 俺は誰かと恋愛する時間はないって言ったけど、お前に興味がないとかお前のことキライだとかって言った覚えはないよ」


「……は?」


「半年前にミカと偶然何かのパーティで再会して、ソナがミカの会社で働いてるって聞いた。仕事ができて人望も厚くて、ミカのまねして派手に遊びまわってるって聞いて安心したけど」


 ミカさん、何をおしえてるのよ?! 遊びまわってるなんて……まぁ、真実では、あるけど。


「でもミカが言うには、それは俺のせいだってさ。俺が純情なお前を冷たく突き放したから、ソナはそうやって強がるしかできないんだって言われて……驚いたんだよ」


「そそそそそんなこと……は」


 ソナにはもう、何が何やらよくわからない。志希が今、ソナのことを語っていること自体恥ずかしすぎて耐えがたい。




   これはなんの罰?! ほんとに、ナメクジになって大量に塩かけてもらいたい。


   恥ずかしすぎて……死んだほうがまし!




 志希が片手で顔を覆って深いため息をつく。白いシャツのボタンを外した襟元から長い首筋がのぞく。ソナはその色香に当てられて、その場に崩れ落ちそうになるのを何とか耐える。


「ソナ」


「はい?」


「訊きたいことがあるんだけど」


「はぁ。なんでしょうか?」


「今、男いるのか?」


「はっ?! あ、い、いや、いな……いま、せん」


 昔も今もいるわけないじゃない……とごにょごにょと呟く。


「うん?」


「あ、いや、なんでもない……です」


「俺が」


「はい?」


「立候補しても、いいか?」


「ええ?」




 朝日が周りのビルに反射して差し込んでくる。ソナは鋭い眩しさに目を細める。



 今聞いたことは、まだ夢の続きなのかしら?





 朝日が降り注ぐ明るすぎる窓辺。


 ルームサービスの朝ご飯が並ぶ。



「ずっとNYの大手のファームで働いてたんだけど」


 コーヒーをカップに注ぎながら、志希が言った。彼の前髪はまだ少し湿っている。


「覚えてるか? 俺と同級のジェスってやつがいただろう?」


「ジェシカってやな女のことでしょ」


「そう、そいつの父親の会社で。でも最近はそいつと結婚しろと言われて居づらくなってた。その頃にミカに会ったんだ」


「ミカさんは救いの神みたいに見えた?」


「見えた見えた。条件も良かったし、断る理由はなかった」


「私が働いてるって聞いても、何も感じなかった?」


「いや。あの頃は俺も余裕がなくて冷たく突き放し過ぎたなって後悔してたんだ。実際、お前は次の年に日本に留学したし」


「ああ、さよならも言えなかったよね」


「謝りたかったんだ。でもお前は昔話をする隙も与えてくれなくて、俺を避けてたから逆に悪いことしたなと思った」


「はは。べ、別に避けてたわけじゃ……まあ、気まずかったけど」


「そうか。やっぱり気まずかったか」




 そりゃ気まずいに決まってる。振られた相手が、新しい上司だなんて。



「十二年も経ってるから、俺に幻滅するかもな」


 ソナはその言葉に呆れる。


「どんだけ私を子供だと思ってるの? 志希が年を取ったなら、私だって取ってるのに」


「確かに、あの頃はまだちょっと幼かったけど、今は大人の女になったみたいだな。でも中身はまだ、昔のままっぽいけど」



 あなたの前では、昔に戻っちゃうのよ。かっこ悪い頃の私にね。ソナはその言葉を飲み込む。



「あるいは……」


 彼女はあまりの恥ずかしさで視線をテーブルの上に外す。


「その……志希のほうが、私に幻滅するんじゃないかって、心配になる」


 はは、と志希はとびきりの笑顔を見せたので、ソナは少女のように胸が苦しくなって真っ赤になった顔を両手で覆う。そんなソナの左手の小指を、志希はテーブル越しに右手の小指に引っかけて、そっと彼女の顔から引き離して優しく手を握った。


「ソナ。韓国のお姫様。ずいぶん時間がかかったけど、ずっとお前のことを忘れられなかったよ。冷たくして傷つけたことを、後悔していたんだ。俺もあの頃はお前のことが好きだったから」




 奇跡が起こった、と思った。


 ソナは、自分が死んで天国へ来たのかと思うくらいの至福を感じていた。




 十二年。




 そんなに長い間、でも思い返せばあっという間に過ぎ去った、志希を忘れられずずっと思い続けてきた年月。


 その間彼女は、自分が年を取ったとかいい大人になったとか、まったく自覚することはなかった。


 彼女の心は、あの時のまま時を止めていたから。


 もちろん、長い年月の中で彼女自身の考え方や価値観は変化してきたはずだが、彼を目の前にすると、途端に十九歳の純情な頃に戻ってしまう。



    あんなに冷たく突き放したくせに……


    私のことが、好きだったっていうの?




 恨みは、ないといったら嘘になる。十二年間、誰のことも本気で愛そうとは思えなかったから。


 誰かを愛そうと努力しても、無意識に志希と比べては落胆と失望を繰り返してきたから。

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