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第26話
どうして再会できたとき、私は何の努力もしなかったんだろう?
彼に好きな人がいたとして、少なくとも(勉強しなくてもいい年になったんだから)自分の好意を示して当たって砕けるべきじゃなかったのかな?
いや、十二年も経ったのにまだ好きだったとか……気味悪がられたかもしれないから、何も伝えずに終わってもよかったんじゃない?
そう。始めなけらば何も終わらない。
思い出の中の彼を、これからも想って生きていけばいい。
あの時は……そう思って踏みとどまった。
でも何十年も経った後にこうして今わの際に息子のことではなくあの人のことを考えるくらいだから、やっぱり後悔が大きすぎたのかも。
志希。
私の人生で、唯一手に入らなかった人。
私が唯一、心から好きになった人。
そうして彼女は、ひとりでひっそりと生を終えた。
その切ない思いは、結局は彼には届かなかった。
彼は「みなみ」とは結婚しない。
それどころか、彼の仕事の能力を高く評価した社会的地位の高い男たちが提案した彼らの娘たちとの政略結婚を、彼はひとつ残らず断った。
そして彼は誰のことも伴侶に選ばないまま、70数年の人生を一人寂しく閉じる。
「……さて、どうしたものか」
酔っぱらったソナが店を出た後、カイは店じまいをした。店じまいとはいっても、指をぱちんと鳴らすだけで、そのソナの「おなじみのバー」は一瞬で消えてもともとある別の店に変わるだけだ。カイのバーにはソナしか客は来ない。
光あふれる夜の街並みを眼下に、スカツリーのてっぺんでカイは物思いにふける。
このまま、「天の定め」どおりに放っておくべきか。
一気に444人分の善行をソナに施すべきか。
「そんなの、考えるまでもないよね~?」
聞き慣れた、さらさらのソプラノが彼の隣で楽しそうに囁く。
「ファイ。お前なんか見たくないって言わなかったか?」
カイは忌々しそうに天使を横睨む。
「ボクはカイにいつだって会いたいんだもん。兄弟の中で、キミのことが一番好きだからさ!」
彼女は白いジョーゼットのような
「俺は兄弟の中でもお前が一番ウザい」
「いやーん。それって、一番気になるってことでもあるよねぇ?」
ファイはきゃきゃっとはしゃぐ。カイはもう諦めて深いため息をついた。
「単純なことじゃないの、カイ。彼女の運命を彼の運命に絡めてあげなよ。後は自分たちで何とかするだろうしさ。444人分のチートはでかいよ!」
「天使がズルをしろって勧めるのおかしくないか?」
「おかしくないよぉ。天の定めが必ずしも常に正しいこともないから。キミはキミに課せられたことを許される日まで続ければいいだけでしょ」
「なるほど……時々、お前の言うことは不思議と正しく思える」
「ボクは常に思うがままに行動してるだけだよ」
それが、天使というものなのかもしれない。
その無邪気さが、あるべき方向へ物事を導く。
「———ぇ」
大きな窓から差し込む朝の光は、いつもの自分の部屋から見える景色とは全く違っていた。
ソナのマンションの部屋からは、スカイツリーが見える。でも今、それは見えるべき場所に見えていない。
しかも。
目の前には、少し日に焼けた滑らかな肩のくぼみ、そして自分のではない体温。
ぼんやりした頭で徐々に覚醒してきて、いきなり通常の理解度に達した時、ソナは思いっきり悲鳴を飲み込んで目を見開いた。
なななななな、なにっ?!
あきらかに……やらかしている。
男と一緒に、見知らぬ部屋で寝ていたなんて。
ソナは恐る恐る頭をずらす。そして男が誰なのか確認しようとする。
ゆっくりと記憶をたどる。
昨夜は……そう、パーティに出席した。
「ソナ、お願いだから私の代わりに出席してきてね!よろしく!」
豪快で破天荒なボスのミカが、退社前ぎりぎりになってドレスとハイヒールをソナに押し付けてばたばたと逃げて行った。なんでも、クライアントのひとつの業績大幅アップのセレブレイトパーティらしい。急用ができたとき、時々彼女はソナに代理出席を押し付けた。ソナのほうが十センチ以上も背が高いながら、ドレスもヒールのサイズも全く同じだから。
でもドレスの丈は残念ながら背の低いミカに合わせてある。赤いAラインのミディアム丈のドレスは、ソナが着るとミニドレスとなる。
それで、仕方なくパーティに出席することになった。しかも、志希のパートナーとして。
丸の内の高層ホテルの上階ラウンジの貸し切りパーティ。
志希がそのパーティにミカと出席することは承知していたけれど、まさか自分がミカの代わりに行かされるとは当日の直前まで夢にも思っていなかった。
ミカさん、絶対に仕込んだよね?!
よりにもよってこんなドレス!
ソナの心の声は、もちろんカイに聞こえてきている。でもカイはファイと共にスカイツリーのてっぺんに座ったまま、事の成り行きを「操作」している。
「ねね、どうせならお酒の力を借りてくっつけちゃおうよ! クピドの金の矢がなくても、それくらいならボクたちでもできるでしょ?」
ファイは完全に面白がっている。カイは小さく舌打ちしてファイを忌々し気に睨みつける。
ミカの秘書のひとりが社用車で二人をホテル前送り届けてくれる。地下駐車場で待ち合わせしていくと、志希はもうタキシード姿で車の前に立って待っていた。
うわ、ヤバくない?
めっちゃかっこいいんだけど……
ソナが内心動揺する。志希にじっと見られてソナは固まる。まるで、蛇に睨まれたカエル状態だ。
わ、私、このドレス似合わなかったかな……?
心の声は自信なさげだ。いつものソナらしさがまったく欠如している。志希が目を細めたものだから、ぶわっと不安の波に飲み込まれて意識が遠のきそうになる。
「相変わらず美しいな」
「えっ?」
「お前は美しいって言ったんだよ、韓国のお姫様」
「……ど、どうも」
わかっている。
社交辞令だ。
彼だっていい具合にウェスタナイズされている。女性を褒めるのはごく普通のことだ。
それにしても、「相変わらず」って。彼がボスとなって数日たつが、昔の思い出話など一切したことはないのに。「韓国のお姫様」って。昔よく、志希はふざけてソナのことをよくそう呼んでいた。
でも車に乗り込んでもこれといった会話もなく。パーティのホストであるクライアントについての情報をふたことみこと話した程度だ。
会場へ入ってからも少し行動を共にして、様々な会社の人たちに彼を紹介してクライアントたちとの顔つなぎに貢献したくらい。志希はすぐに注目の的となり、クライアントたちに取り囲まれた。幅広い知識と知的でユーモアのセンスある話術。光り輝く自信に満ちたオーラに、人々が魅了されているのが分かった。
緊張がピークに達したソナは、いつにもましてシャンパンのグラスを空にするペースが速かったのだと思われる。
次に記憶があるのは、腰を抱きかかえられて誰かの肩に頭を預け、エレベーターに乗っているところ。煌めくビル群を追い抜いて上へ上へと昇ってゆく。
へへへ。きれーい……
夜景に向かってにっこりと微笑んで、そしてまた意識が飛んだ……までは何とか思い出した。
とりあえず、落ち着いて。
ソナはひそかな深呼吸をした。そして志希を起こさないようにそっとベッドを出てバスローブを羽織り、ソファに投げ出されていたクラッチバッグを手にバスルームへと避難する。
「あぁ……そんなバカな」
鏡の中の自分は、化粧が崩れている。マスカラとアイラインが下瞼についてアライグマみたいだ。そして滲んではみ出たルージュ。どうしてこうもみっともないところばかり見せてしまうのだろうか?
彼女はクラッチバッグからメイク落としシートを一枚取り出すと、丁寧に崩れた顔をふき取った。
鏡の中に移るのはちょっと幼く見える自分。それがコンプレックスで、ついきついアイメイクをしてしまう。化粧を落とした幼い顔には茶クマがくっきりと浮かんでいて、彼女はずーんと落ち込んでしまう。
こんな汚い顔を彼に見せるわけにはいかない、死んでも。
彼女は熱いシャワーを浴びて身支度を整えた。
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