第25話

「知らないよ。でも、噂で聞いた。留学前に、ずっと付き合っていた彼女がいたんだって。でもその人とどうなったのかは、誰も知らないの。留学前って言ったら、日本でだよね? まったく……帰国したんだから、再会してるよね、今頃はきっと」



 ちぇ、と呟いて、ソナはまた唇を尖らせた。



 カイはバーの中で首をかしげる。


 先日見に行った志希からは、そういう幸せそうなオーラは感じられなかった。彼はひたすら、心を閉ざして淡々と生きているように思えた。普通の若い男性たちのような平凡な欲望が何も感じられない。ソナは厄介な男に惚れこんでしまったと思った。



「まあ、同じ会社で働くことは私もいい年の大人だし、気にしないようにふるまうことはできるよ。フロアが違えば一日まったく会わないこともあるだろうし、すれ違う程度なら頭を下げるくらいはね。でも。でもさ、ミカさん、あれはひどいよ……」



 ソナはミカの命令で、志希のサポート役を任じられたのだ。すなわち、同じフロアどころか、同じ部屋オフィスで毎日顔を突き合わせることになったのだ。


「あんたが振られたことは知ってる。でもね、ソナ。ビジネスとプライベートは分けて考えてよね」


 無情にもミカはそう言い放った。合理主義者の彼女らしいクールな意見だ。確かに、間違いはない。仕事と私情はまったく別物だ。たとえ相手が自分の人生における唯一の黒歴史であろうと、それはビジネスに何の影響も及ぼすべきではない。



 新しい上司がNYからやってくる。とても優秀な人物だ。会社のトップであるミカは、彼をナンバー2として迎え入れた。



 必要な事実はそれだけだ。


 ソナが失恋した相手だろうが赤の他人だろうが、会社的には何の問題もない。




 ミカに連れられて新しい上司のオフィスに入った時、ソナはその場に凍り付いて動けなくなってしまった。


 それなのに志希はひょうひょうとしたビジネスライクな挨拶をしてきた。


「キミもここで働いていたのか。どうぞよろしく」



 ソナは頭の中が真っ白になったが2秒遅れて我に返り、あわてて志希の差し出した手を取って握手した。


「あ、はい。よろしくお願いいたします……」


 彼女の傍らでミカがくすっと笑う。


「なぁに? いつもの堂々として自信に満ちた態度はどうしたのよ? 借りてきたネコみたいに縮こまってさ。さすがに、向坂氏の評判がすごすぎてびびちゃった?」


「いい、いえ、そそそんなことはないです!」


 心の中で舌打ちをして、ソナはミカの口をふさぎたい衝動を必死に抑えた。



 ソナが学生の頃志希に振られたことを知ってるくせに。そんなやり取りを見ても、志希は涼しい表情のままだった。


 そられが、一週間前の出来事。



 それからソナは一時的にシニアマネジャーである志希の部屋に置かれたデスクを使うことになった。


 プライドの高い彼女は、毎日が地獄の燃え盛る石の上に座らされる拷問のような気分を味わっている。




「それで、どうして今日は早退なんかしたの?」


 ソナはたかが男一人ごときで仕事に支障をきたすような女ではない。それは短いつき合いながら、カイにもよくわかっている。


 二杯目のロックを一気にあおりグラスを置くと、ソナは盛大な溜息をついた。


「あんたにはわかんないでしょうね。顔から火が出る、っていうかその羞恥心の炎が全身火だるまにまで広がって、地面を転げまわるような気分よ」


「つまり、まだその男のことが好きなのか?」


「うぅっ。痛いところを突くよね。忘れられない存在ではある……ね」



 職場で一緒にいるとき、志希は学生時代のことについて一切触れない。



 キミモココデハタライテイタノカ



 確かに、そう言っていたのに。「キミも」ってことは、ソナのことはちゃんと認識しているはず。




 大学構内、真夜中の図書館。


 すこしだけ仮眠をとると言って寝ていた志希に、恋心があふれ出たソナは、思わずそっと口づけた。すると志希はふと笑みを浮かべ、目を閉じたままソナのウエストをそっと引き寄せて、そして彼女を抱きしめて言ったのだ。


「み……なみ……」



 みなみ。


 ソナはそれではっと我に返った。そのつぶやきは完全に日本語のアクセントだったけれど、確かに人の名前だった。



 みなみ。


 彼にキスする誰かの名前。


 みなみ。


 抱きしめられて、そっと優しいキスが降ってくる。ソナは呆然とそれを受け止めたけれど、あまりの衝撃に何も考えられなくなって固まってしまった。


 はっ、と息をのむ気配。


「ああ、ごめん」



 大きな手に体を引き離されて我に返る。驚きと戸惑いの混じった表情の志希が、気まずそうにソナを見つめていた。


 普段から見つめてほしいとは願っていたけれど、そんな風に見つめてほしいと思ったことはなかった。


「寝ぼけたみたいだ。ごめん」


 彼は深いため息をついた。ソナは必死で彼のシャツの腕を捕まえた。


「あの、待って志希!」


 すると志希は彼女の頭をそって撫でた。


「韓国のお姫様。もうお前とはこれ以上親しくできない。一緒に勉強するのは今日が最後だ」


「どうして?」


「勉強の邪魔なんだ。俺にはどうしてもやり遂げなければいけないことがあるから、恋愛とか他のことに時間を割く余裕はないんだよ」


「いや、別に時別なことを望んでるわけじゃないよ! こうして、一緒に勉強できるだけでも……」


「ソナ。人間は誰でも、現状よりもさらに多くのものを望んでしまう生き物なんだ。いつかお前は不満が爆発するだろう。そうなる前に、始めるのをやめたほうがいい。今まで通り、みんなでいるときはいいけど、こうやって二人きりはもうやめよう」




「みなみ」と勘違いされたキスひとつで、結局ソナは失恋してしまった。


 なんて、みじめなのだろう。




 十二年経った今、志希はそんなことはとっくに忘れ去ってしまったというような、平然とした顔をしている。彼の中では、それだけ大したことではなかったのだろう。


 昔話も一切してこない。そのくせ社内の人間には、ソナは優秀な後輩だったと公言している。


 それがソナにとってはいたたまれない。毎日が気もそぞろでミスしないかと怖くて仕方がない。


「今日は昼から重役会議だから、彼が戻ってこないうちに自分の仕事を片付けて早退してきたんだよ。ほんと、なんの罰なのよ」




 カイはため息をついた。


 実は、ソナと志希はこのままなら結ばれることはない。それが「天の定め」というやつだ。



 しかし、カイはソナを幸せにしてやりたいのだ。なにせ彼女は心のつぶやきが聞こえる120年ぶりに見つけた同調できる人間なのだ。彼女を幸せにすれば、444人分の魂をいっぺんに救ったことにできる。




 ちなみに、これからの二人が本来ならどうなるかと言うと、こんな感じだ。




 志希と毎日顔を合わせることに負担を感じたソナは、おせっかいな姉が見つけた「素晴らしい条件」の男とお見合いをすることになる。彼はある実業家の息子で、やがては父の事業を継ぐこととなっている。ソナは2年後に彼と結婚して3年半後には男の子を一人産む。夫は事業に夢中であまり家庭を顧みない。二人は体面だけの夫婦となり、子供が成人するころには、ソナはすべてを諦めて趣味に生きることになる。息子が結婚して家庭を持ち、父親の事業を継いで立派になったころ、ソナの夫は脳梗塞でこの世を去る。彼女は広い家に独りで暮らし、ある日死後五日で嫁に発見される、そんな人生。


 裕福な暮らしを続けて人に羨まれる結婚、家庭、息子を持つことになるけれど、あまり幸せを実感できないような人生。


 


 ソナに用意された人生の終焉。



 広い家で孤独な死を迎える瞬間、こんなはずじゃなかったと思い、人生でたった一度かなわなかった初恋を思い出す。



 彼女は後悔の苦笑を浮かべながら息を引き取る。

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