H634
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第23話
スカイツリーのてっぺんで、ひとりの堕天使が退屈そうに地上を見下ろして深いため息をついた。
彼は黒光りする大きな赤い翼をその背に付けている。
黒いシャツに黒い細身のパンツ、そして黒いスニーカー。少年ともいえる華奢な彼の体には、そのまがまがしく大きな翼はいくぶん重そうにも見える。広げれば身長の二倍はあるかもしれない。
「……」
ぐるりと張り巡らされたフェンスの上に座り片膝を立てている彼の姿は、もちろん人間たちに見ることはできない。
もしも人間たちが彼を見ることができたとしたら……ただただた、その美しさに感嘆して、うっとりと見つめることしかできないだろう。
漆黒の艶やかな短い髪に、金色にも見える薄茶色の瞳。
青白い程に透き通る肌、氷のように冷たいまなざしに、物憂げな美貌。
この電波塔のてっぺんは、最近の彼のお気に入りの場所だ。
一人になるには、もってこいの場所。そして彼が落ちてきた天からの「音」を、かすかに聞き取れる場所でもある。
「カイ」
頭上からか細く透明な声が聞こえる。彼はまるで聞こえていないかのように何の反応も示さない。
「ねぇ、カイ。無視しないでよ」
声には少しのいら立ちが混じる。それでも彼は何の反応もなくぼんやりとし続ける。
「カーイー!」
「うるさい」
「聞こえてるじゃん!」
ふん、と鼻で笑う声。
ふわり。
彼の目の前に白いジョーゼットのような布が舞う。その姿から微かに発光する天の光の眩しさに、彼は目を細めて不快そうに眉を顰める。
「うせろ、ファイ。お前なんか見たくもない」
唸るように彼が静かに威嚇すると、白いシンプルなドレスを纏った長い白髪の少女はぷぅと頬を膨らませた。彼女の背には、七色に光る大きな白い翼が広げられている。
「ひどいなぁ、カイ。一緒に生まれた仲なのに」
白く長いまつ毛に縁どられた彼女の大きな灰緑の瞳には不満と非難が見られる。
「俺はもうお前の兄弟なんかじゃない。堕とされたんだ」
堕天使——カイがそっけなく呟くと、天使——ファイは無邪気な笑顔を浮かべて言った。
「そうねぇ。罰を受けているのよね、あと何年だっけ? 人間の世界で言う、567年だっけ? でもキミがボクの兄弟だっていうことには、何の変わりもないんだけど?」
「お前のそういう鈍感なところがムカつくんだよ。俺を苛立たせる天才だな、昔から」
カイの声にはあからさまないら立ちが混じる。彼は金色の目でファイをじろりと睨みつけた。
「いやーん、ありがとう~。ミューよりもイータよりも、ボクのほうが好きってことだよね?」
「お前はバカか? 一番ウザいって意味なんだけど」
彼は鼻の付け根にシワを寄せた。ファイは構わずにくるりと身を翻してカイの横のフェンスの上に腰を下ろした。
「ね。どうして100年も住み着いていたお気に入りのパリから
「お前には関係ない」
「そんなこと言わずにさぁ。カイがいなくなったから、グザイが寂しがってたよ? サクレ・クールの上からエッフェル塔を見ても、キミの気配が感じられないって」
「——つぶやきが聞こえたんだ」
「えっ? 人間の?」
ファイは灰緑の瞳をさらに大きく見開いた。
カイはいら立ちを封印するようにまたため息をついた。鬱陶しい兄弟を早く追い払うためには、彼女の好奇心を満たしてやるに限る。
「ああ」
「それって……久々に、同調できる人間がここにいるってこと?」
ファイは眼下の東京の街並みを見下ろした。
「そうだ。120年ぶりだ。ある日、声が聞こえ始めた。それでその声に導かれて、この国に来たんだ」
「へぇ。堕天使に声が聞こえるってことは、その人間は一度死にそうな目に遭ったってことだよね?」
「死にそうになっただけじゃ無理だ。かつ、俺と同調しないと聞こえない」
「うんうん。それで、どんな人間なの?」
「……」
ムッと黙り込むカイを横目で見て、ファイは苦笑して小さなため息をついた。
「はいはい。わかったよぉ。ま、何かしら関心を持てるものができたのはいいことだね。罰はまだ長いから、ちょっとでも楽しくやらないとね。その人間を幸せにできたら、罰の期間が少しは短くなるからね。頑張って」
彼女はふわりと宙に浮くと、くるりとカイに向きなおってえもいわれぬ美しい笑顔を浮かべた。
カイはそんな天使の笑顔にも無関心なまま、ふんと鼻を鳴らした。
「もういいだろ。早く失せろ」
ファイは灰緑の目を見開いて肩をすくめると。諦めたまま姿を消した。キラキラと、光の粒子が彼女がいたあたりで輝いて消えた。
平和な時間を邪魔されたカイは、ち、と小さく舌打ちした。
彼は
いた。彼女だ。
さっきから、彼女のいら立ちが伝わってきている。悪態も聞こえてくる。
彼は目を閉じる。
まったく!
どいつもこいつも!
みんなまとめて隅田川に落としてやろうか?
ふ。カイの口元が思わずほころぶ。
彼女は今日も何かに腹を立てている。
今日は誰かが何かをしくじったから腹を立てているわけではないようだ。
でも、いつもの数倍は苛立っている。
彼女の人生の汚点。
彼女の人生においてたった一つの失恋の相手に、思いがけなくも再会してしまったせいだ。
カイはゆっくりとフェンスの上に立ち上がった。地上645m。ばさりと音がして、彼の背中の黒光りする赤い大きな両翼が広げられた。
ふわり。
追い風に乗り、彼はフェンスを蹴って宙に舞い上がった。
日の光を浴びて、堕天使の赤黒い翼が七色に輝く。彼はまるで一枚の羽根のようにゆっくりと地上に降下し始めた。
「カイ! いつもの!」
薄暗い店内は他に客はいない。入ってくるなり彼女はバーに突進してきながらそう言った。
「はいはい。まだ真昼間なんだけど」
カイはため息をつきながらも彼女の前にさっとロックグラスを差し出した。からん、と薄いグラスの中で氷が涼しげな音を立てる。
美しくシンプルなフレンチネイルの施された長い指がグラスを鷲づかみすると、彼女は一気にグラスの中の黄金色液体をのどに流し込んだ。
「昼だろうが夜だろうが、必要な時はいつだっていいのよ」
肩で息をつきながら、彼女はフンとやさぐれながらつぶやいた。
「もう一杯」
「さすがに……勤務中の午後二時にマズいんじゃない?」
カイが呆れながら諭すと、彼女はギッと彼を睨み上げた。
「うるさいよ。飲まずにやってられるかっていうの。早退してきたからいいんだってば」
「ああ、そ。ならお好きなだけどうぞ」
カイはソナのグラスにシーヴァス・リーガルのボトルからウィスキーを流し込んだ。
「何だっていうんだよ、そんなに荒れて」
「先週、新しい上司がアメリカから赴任してきたって言ったでしょ」
「うん?」
「それが……同じ大学の先輩で」
「で?」
「この世でたった一人、私を振った男だったんだけどね……」
「ああ……はぁ。なるほど」
だん!
ソナはグーでバーを叩いた。
「
「そりゃぁ優秀だからソナのボスがNYでヘッドハンティングしてきたって、そう言ってたんじゃなかったか?」
「ううぅっ。その通り……だけど、まさか彼だったとは聞いてないって」
「そりゃね。いちいち部下に詳細伝えてヘッドハンティングしないだろう。ましてや、部下の元カレとまでは調査しないし、知っててもどうってことないだろうし」
「元カレってほどのものじゃないよ。でもどうってことないって……あんた、キツいわ」
「俺に心がないっていつも言ってる本人が言うか」
「ぅうう……憎たらしい小僧め」
ソナは再びグーでバーをバンバンと叩いた。
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