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第22話
「三十五年も生きてるとさ、いろいろな経験するよね」
私の言葉に圭太はくすっと笑う。
「まあね」
「得たもの、失くしたもの、すぐに通り過ぎて忘れちゃったモノ、どうやっても自分の中から消し去ることができないモノ」
「失くしたことにも気づかないで、ずっとあったけど忘れ去ってたモノ」
「そうそう! そういう子にさぁ、名前呼ばれて話しかけられて覚えてる? とか言われると焦るよね?」
「はは。そういう時は名前思い出せないのを悟られないように慎重に話してごまかすけど」
「話しているうちに思い出すこともあるけど……」
「その出来事は覚えてるのに、まだ名前が思い出せないとホント焦るね」
「俺のことは覚えてたか」
「当たり前じゃない! 一番家が近い幼なじみだよ? 特別仲良かったわけじゃないけど。あんたんちはいつも行ってたし、おばさんのおやつはめっちゃおいしかったし」
「ああ~。帰省すると必ず、食卓でミナと珠澄の話が出るんだよな。だからかな。俺はそんなに一緒に遊んだこともなかったのに、すごくよく知ってる気になって」
「なるほどね。確かに、こんな長い時間話したこと、なかったよね」
どうしてかな?
二十年ぶりなのに、二十年以上前よりも話が弾む。
いつの間にか終電も間近になっていた。
梅雨明けの蒸し暑い夜に、隅田川からの川風が吹き抜けてゆく。
たくさん話をしたのに……私は肝心なことを話せていなかった。
明日から私は実家に戻り、通いで圭太の両親から養蜂業を学び始める。
みーちゃんはパリに発つ前に、圭太にそのことを言ってなかったみたい。
おじさんとおばさんとも最近は話してないらしいので、圭太は何も知らないだろう。
跡は継がないみたいだから反対されることはないと思うけど……もし圭太が嫌な気分になったらどうしよう?
「どうしたの? 珠澄」
圭太が首をかしげる。
私は首を横に振る。
「いや、なんでもない。なんか、今日は思いがけず楽しかったよ。つき合ってくれてありがとね」
「俺も暇だったし。まさか珠澄と酒を飲むとはね」
私たちはくすっと笑い合った。
「それじゃあ、またね。そのうち、実家あたりでまた会うことになるかな?」
私は右手を胸の前まで挙げててのひらをひらひらと振った。
「うん。いつか。また二十年後かもしれないけど」
圭太はうなずいて笑った。
私たちはそうしてスカイツリーの下で別れた。
二十年後か。
その頃、私はどこで何をしているんだろう?
ちゃんと養蜂業を学んで、うまくやってるだろうか。それとも、失敗してしまってるだろうか?
電車の窓から、スカイツリーが遠くに見える。
窓に映る私は、なぜか穏やかな表情のまま微笑んでいる。
誠二のこととか、浮気されたこととか、もうどうでもよかった。
主任のポジションとか昇進とか有休消化とか、そういうのもどうでもよかった。
服やメイクの流行も、どうでもよかった。
私は、高速道路を降りるのだ。
二十年後?
二十年後どころか……圭太に再会したのは、スカイツリーの下で偶然会ってから二十時間後だった。
実家に戻り、両親に挨拶して歓迎されてほっとする。後を継いだ兄一家は、少し離れた敷地内に新しく家を建てて住んでいるからあまり気兼ねはいらない。圭太とみーちゃんの家まで丘を登って行って、二人の両親に挨拶する。これからよろしくお願いします。
「珠澄ちゃん! これからよろしくねぇ。養蜂継いでくれるって聞いて、どんなにうれしかったことか!」
「珠澄ちゃん。ほんとにありがたいよ」
にこにこするおばさんとおじさんに早速いろいろな話を聞いていると、「ただいま」という声が玄関から聞こえたのだ。
私たち三人は顔を見合わせて驚いた。
「あれ? 珠澄? どうして……」
圭太はきょとんとして首をかしげた。
水平線の上には、うっすらと朱鷺色の空が広がる。
「おかしいと思ったんだよなぁ」
庭のベンチに座った圭太が笑った。
「今朝、母さんに電話したんだ。仕事辞めたからしばらく旅に出てくるってさ。怒り出すかと思ったら、なんか声が嬉しそうで。旅に出るなら、その前にちょこっとこっちに帰ってきなさいって」
「おばさん、圭太が帰って来るなんてひとことも言わなかったよ。おじさんもびっくりしてたから、知らなかったんだろうな」
アイロンレースのミドリ色のガーデンチェアに座った私は苦笑した。
「私も昨夜黙っていてごめん。圭太に反対されたらと思うと、どうしても言えなかったんだ」
「珠澄がうちの家業を継ぎたいってこと? いや、別に反対はしないよ。俺もミナも継ぐ気はないしね」
「そっか。よかった。みーちゃんは大賛成してくれたから」
「俺も賛成するよ。失敗は気にせず、やってみたらいいよ。うちの親たちもすごく嬉しそうだし」
「頑張ってみる。できることはできるだけやってみたいから。それで、あんたはこれからどこに旅に出るの?」
「そうだなぁ。夏の間にモンゴルとか中央アジアとか……東ヨーロッパとか行ってみたいかな」
「みーちゃんに会いに行かないの?」
「行っても歓迎されなそうだし、話すこともないし」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだよ」
ふふふ、と私たちは笑った。
「旅が終わってやりたいことが見つかっていないときは、ここに戻ってきて私を手伝ってよ」
「え?」
「だから。一緒にやろうよ、養蜂」
「えー?」
何でそんなことを提案したのか自分でもよくわからないけど……みーちゃんやおばさんの策略にはめられてあげるのもいいような気がしていた。
「私のやる気と労働力と宣伝力とコネと、圭太の化学の知識があれば、結構盛り立てて行けると思うんだよね」
圭太は暮れなずむ空を見上げて笑った。
「あぁ。まいったな。母さん、やってくれるよな」
「おばさん?」
「もう三十年くらい前から、珠澄のことを嫁にしろって、呪文のように言い聞かされてきた」
私はぷっと吹き出した。
「なにそれ?」
「これって、母さんにはめられたんだよ?」
「いいんじゃない? はめられてあげても」
「いいのか?」
「いいでしょ。もうこの際」
「いいのか」
みーちゃんが喜ぶに違いない。
おじさんもおばさんも、うちの両親も。
二十年も、忘れていたモノ。
つい最近、見つけた。
失くして、見つけて、その繰り返しの中で見つけた、今まで気づかなかったすてきなモノ。
暮れゆく水平線を肴に、w他紙たちは缶ビールをこつんと合わせて乾杯した。
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