第20話

「やだみーちゃん、一体、どこに行くのよ?」


 テーブルに身を乗り出して訊くと、彼女はふふ、と柔らかく笑んだ。


「パリ。素敵じゃない? 世界中の人が憧れる都市よ。私もだけどね」


「し、仕事は?」


「やめちゃった」


 私はハイボールのジョッキをごくごくと呷ってからため息をついた。


「はぁ。思い切ったね。おじさんとおばさんは何て?」


「やりたいことしておいでって。おにいも初めは呆れてたけど、結局はがんばってみろって言ってくれたよ。あ、そういえばすずちゃん、実はおにいも今東京にいるんだよ」


「はい? 圭太が? 大阪にいるんじゃなかったっけ?」


「こっちの本社に転勤になったんだって。五か月くらい前からかな。言うの忘れてた」


 みーちゃんはてへっと舌を出して肩をすくめた。



「今日も一瞬だけ連れてこようか迷ったけど。久々だからすずちゃんと二人だけで積もる話もあるからやめた」


「そっか。相変わらず、製薬会社にいるの?」


「うん。おにいは家業を継ぐ気はないみたい。私もだけど」


「ええ~? もったいない。小さいころからうらやましくて仕方なかったのになぁ」


「だったらすずちゃんが継げばいいよ。うちのお父さんもお母さんもきっと喜ぶよ。あ、でもすずちゃんも今の仕事で出世してきてるから無理かな」


 そうね、とは言えなかった。私は十二秒ほどぼんやりと考え込んだ。


「んっ? すずちゃん?」


 みーちゃんが私の目の前で手をひらひらと振る。



「あ、いや。結婚もなくなったし、最近思うんだよね。いったい、いつまで今の仕事続けるんだろうって。このまま年を取っていってもいいのかなって。もしかしたらもう、一生一人で生きていくかもしれないし」


「はは。そんなことないよぉ。でも私も同じようなこと思ってるかな。だから留学してみたくなったっていうのが本音」


「なんんだろうね、この焦燥感。今のままじゃなくて、ここではないどこかへ、って考えちゃうよね」


「うんうん。いっそのことうちにお嫁に来なよ」


「はぁ? みーちゃんのヨメになれって?」


「そんなわけないじゃん。おにいの嫁になればいいんだよ。そうすれば私ら義姉妹だもん。老後楽しそう」


「あはは。なんなの? 私たち、圭太に結婚するようなカノジョいないの前提で話しちゃって」


 私たちは椅子から転げ落ちるくらい笑った。




 私たちの故郷は千葉の片田舎。


 日当たりのいい丘の上にみーちゃんと圭太の家があって、丘のふもとの花畑の奥に、私の家がある。みーちゃんの家はおじさんが脱サラしておばさんとふたりで養蜂業を始めて、数種類のはちみつを売っている。子供のころはみーちゃんと花畑を駆け回ったりおままごとをしたりして遊んだ。そしておやつの時間になると、おばさんがはちみつをたっぷり使った焼き菓子を作ってくれた。



 小さなミツバチたちが一生懸命に集めた黄金色のはちみつ。甘い香りと得も言われぬ誘惑的な甘さ。攪拌して瓶詰にする作業を見ているのがとても好きだった。


 圭太は私と同い年だったけれど、妹や私と遊ぶよりも部屋で本を読んでいるのが好きな子だった。どちらかといえば落ち着いていて、おとなしい子だった。時々、おばさんに言われて私とみーちゃんをしぶしぶ花畑に呼びに来る程度。中学からは隣の市の中高一貫校に入ってしまったので、余計に交流は少なかった。



「あー、懐かしいな。あの頃はすべてが輝いて見えていたわ」


「子供の頃って、毎日が新しい発見に満ちてたよね。毎日、日が暮れるまで遊びまわって……」


「みーちゃん、私ね、会社辞めようと思ってたところだったんだ」


「えっ? そうなの? 寿々ちゃんのことだから、課長とか目指すと思ってたよ」


「みんなそんな風に言うんだけどさぁ。私、会社にそんな思い入れないんだよね。私が辞めても、代わりなんていくらでもいるしさぁ」


「やめて、どうするの?」


「うーん。どうしよっかなあ?」


 二杯目のハイボールを注文して、私はレンコンの串に手を伸ばす。みーちゃんはテーブルに身を乗り出してなぜか声を潜めて言った。



「はちみつ」


「うん?」


「私もおにいも継ぐ気がない残念な子供たちだけど、すずちゃんが継いでくれたらウチの家族はみんな嬉しいよ」


「はちみつ……」


「私、継ぐのは嫌だけど、すずちゃんが継いでくれるなら手伝ってもいいな」


「なによそれ」


「今度、一緒にうちの実家に行こう。お父さんとお母さん、すっごく喜ぶと思うよ!」


 みーちゃんはテーブル越しに私の両手を取ってぶんぶん振った。



 はちみつか……



 大変な仕事だと言うことは、みーちゃんの両親を小さなころから見ているので私にも容易にわかる。蜂が全滅して二人が絶望の淵に立たされたことも覚えている。それでもおじさんと叔母さんは、養蜂をやめなかった。


 はちみつは虫歯にならないからと、おばさんははちみつをたくさん使った甘いお菓子をいろいろと作ってくれた。


 花の蜜によって香りも味も違うということをおじさんが教えてくれて、小学生の頃の自由研究で発表したっけ。



 養蜂か……



 それも、いいかも。





 なんて……軽く考えてたけど。


 みーちゃんに会った日からずっと、私は養蜂について考えていた。


 誠ちゃんとの結婚に何かを期待していたわけじゃなかったけど……もしかしたらこれは、本当に転機なんじゃないかな。


 おじさんもおばさんも、とても喜んでくれた。うちの両親も、実家に歩いて行ける距離ということで大賛成してくれた。みーちゃんももちろん応援してくれている。圭太だけはどうなのかわからないけど、自分で継ぐ気がないらしいのできっと淡々と認めてくれるだろう。



 私は、やってみたいことを見つけた。


 そしてその三か月後には、退職願を会社に提出した。




 送別会を開いてもらい、いよいよ明日はいなかに帰るという日。



 なんとなく、本当になんとなく。私はソラマチに行った。


 夕方の早い時間に一人でちょっとゴージャスなご飯を食べて、一杯ひっかけてこようと思って。


 どうして、ソラマチだったのか。渋谷でも青山でも、銀座でも丸の内でもなく。


 たぶん真下から、スカイツリーを眺めて見たかったからかも。でも、別段深い理由はなかったと思う。




 東京が最後の夜とはいっても、電車一本で来ようと思えばすぐに来られる距離だもの。


 ああ、理由ならあったかな。広場でアジアン屋台が開かれてるって聞いたから。ついでにプラネタリウムも行きたいかもって。

 



「あ」


「えっ?」




 ぽかんと口を開いてスカイツリーを見上げていると、ふと横からの視線に気が付いて……はっとそちらを振り返った。


 そして私は驚きをひゅっと飲み込んだ。


 相手も……正面から私を見て確信を得てまたまた驚いたようだった。



「珠澄……珠澄だよな?」


 三十代初めくらいの、見慣れぬ男性。ひょろっと細くて、白いTシャツにジーンズ、白のスニーカー。


 でもどこか、幼い頃の面影がある。


 

 呆然を私を見つめる彼に、なぜか胸が詰まって上ずった声で答えた。


「そういうあんたは……」

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