LOST AND FOUND

第19話

人は長く生きれば生きるほど、失うものも得るものも増えていく。



 大学のために上京して十六年。私が得たものも失ったものもかなり多くなった。



 田舎の短大を出て地元の企業に就職して、20代前半くらいで結婚して子供を産む。地元の友達のほとんどがそのコースを選び、今や彼女たちの子供たちは幼稚園や小学校に通う年になった。



 私は一度の転職を経て、今の会社では主任にまでなった。責任の明日仕事を任され、後輩たちを指導し、それなりに充実した日々を送ってきた。



 五年付き合った恋人とは自然な流れでそろそろ結婚しようかと、そういうことをたまに話し合う程度。具体的にプロポーズされたわけではないけど、そのうちそうなるだろうなとは感じていた。



 人脈はそれなりに広まった。仕事も高評価を得ている。後輩たちからも慕われている。もちろん、人並みに嫌いな上司や思い通りにならないこと、嫌いなことも多々あるでも今のポジションにも職場環境にも満足している。 


 人並み。そう、人並みに言えば、私は恵まれているほうだと思っていた。




「ねえ」


 恋人の誠二の家に泊まったある朝、私は朝ご飯のテーブル越しに彼に話しかけた。炊き立てのご飯に白菜と大根の浅漬け、分葱入りのだし巻き卵、皮がぱりっと焼けた脂ののったしゃけにいりこだしのお味噌汁。


「うん? なに?」


 彼は眠そうにあくびをしながら言った。


 よれよれの襟の伸びたTシャツに、少し伸びた無精ひげ。頭長でアンテナみたいにピンと立ち上がった寝ぐせ。ああ。昔はこの、ほかの人には見せない無防備な姿がかわいくてたまらなかったのに。外でのスキのない姿とのギャップに母性本能をくすぐられたっけ。



 でも今は……ただただだらしないとだけ、思ってしまう。



 認めざるを得ない。私たちの甘い期間はもうとっくに過ぎ去ってしまったのだ。




「私たち、別れよう」


「えっ?」


 ハトが豆鉄砲を食らった顔とは、今の誠二みたいな顔を言うんじゃないかな?



 私にしてみればそうなる要素はあちこちにあったわけだけど、彼にしてみれば寝耳に水だったみたい。



「ちょっと、もう一回言ってくれる?」


 彼は眼鏡の奥で眉をひそめた。昔は起きて顔を洗ってすぐにコンタクトレンズを装着していたけれど、最近は起きても顔を洗わずに、黙っていれば一日中眼鏡にスウェットのまま過ごしている。別に、いいんだけどね。



 私はこくりと小さくうなずいた。


「うん、別れようって言ったの」


「は?」


 理解不能だとばかりに彼は首をかしげた。


「何の冗談?」


「冗談じゃない、本気」


「なんで?」


 私は浅く長いため息をついた。


「わかんないの?」


「わかんないから訊いてるんだけど?」


 箸を握ったまま、誠二は私を非難の目で見つめている。




「ゆうべあなた、寝ぼけてね……」


「えっ、なに? もしかして珠澄すずのこと蹴っ飛ばしちゃった?」


「じゃなくて」


「殴っちゃった?」


「だから違うって」


「じゃあ、なんだよ?」


 すう。私は息を整えた。そして自分でも驚くほど淡々と言ってのけた。




「シオリ」


「えっ?」


 一瞬、誠二の見開いた目に動揺が泳ぐ。


「シオリって……寝言で言ってた」


「……」


「でそのあと、あなたのスマホにメッセージが届いて……画面に送り主が『詩織』って出てたわ」


「……」


 彼は茫然として蒼白になる。今、必死で言い訳を考えているみたいね。長い付き合いだもの、表情は読める。


「す……」




 私の名を呼び掛けた彼を、てのひらを向けて制し、首をふるふると横に振った。



「いい。何も言い訳はしないで。私がそういうのダメだって知ってるでしょ? もう誠ちゃんは私を女として見られないみたいだし、ほかの人に関心が行っちゃってる、ただそれだけでしょ?」


「それは……いや、でも、元も子もないな……」


 誠二の眉が八の字に下がる。まだ彼は態度を決めかねている。どうすることが正解なのか考えあぐねているのだろう。



 私たちの五年という歳月は決して短くはない。


 私はテーブルに両肘をつき、両手を組み合わせそこに顎を置いた。




「だから。私の性格、知ってるよね? 一回ダメって思ったらもう何をどうしようとダメなの。どうせ私ももう、誠ちゃんには何もときめかないしね」


「おい、それヒドくないか? お前まさか、ほかに男ができたのか?」


 私はふっと口の端を引き上げた。



「自分が浮気しておいて、私にいもしない相手のことでいちゃもんつけるの? それって、ヒトとしてどうよ? あぁ、でも、もう……いいわ。ということで、今日からは他人ね。必要なものだけ持ち帰るから、あとは捨てておいて。誠ちゃんもうちにある大事なもの、リスト送ってよ。着払いで送り返してあげるから」


「珠澄……お前って、本当に冷たいよな……」


「そうでもないと思うよ。女は、どうでもいい人にはまったく興味を持てないだけ」


「そういうとこだよ……かわいげっていうかさ……」



 だんっ!



 私は手のひらでテーブルをたたきつけた。びくっと誠二が肩を縮める。



「自分が浮気しておいて、私のこと冷たいとかかわいげがないとかいう資格があるとでも思ってるの?」


「い、いや、そういうわけじゃ……」


「私が冷たいから浮気したなんて言う言い訳は通らないからね? 浮気する前に私たちの関係について話し合うべきだったでしょ? お互いに努力し合う必要があるか、それとももう完全に終わりにするか。ああ、でも違うかな。私が一度でも浮気なんて許せない性格だって知りながら浮気したなら、もうどうでもいいと思ったってことなんだよね?」



 あぁ。大人げない。ちょっと声を荒げてしまった。ふう~。深呼吸する。



「……とにかく、お互いにもう関心がないのに、関係をずるずる続ける意味はないわ。私のこと、かわいげがないって思ってるんでしょ? そういうことで」






「えっ? 別れたの?」


 駅前のせんべろ居酒屋。半年ぶりに会った幼馴染のみーちゃんが目を丸くした。


「ん。別れたの。浮気されたから終わりにしたの」


「ははぁ。すずちゃんの性格だと、一度くらいは許すっていうオプションは無いんだよね……」


 さすが幼馴染。私のことをよく知っている。


「浮気する男は絶対にまたやらかすのよ。恋人でも夫でも、ほかの女と共有するのはまっぴらごめんだわ」


「相変わらず潔いわ。そっかそっか。じゃぁ、また新しいレンアイ、頑張って始めてね?」


 ハイボールのジョッキが運ばれてきて、私たちは乾杯した。


「ごめんね、久しぶりに会ったのにこんな話からで」


 私が苦笑すると、みーちゃんは首を横に振ってほほ笑んだ。変わらない、柔らかで癒される笑顔。この子は小さいな頃からおっとりと微笑む。ものごころついたころから一緒に遊んでいた、私の四つ下の妹分。



「それで、元気にしてた?」


 私が生のキャベツをちぎりながらたずねると、彼女は大きな目をくるりと回して天井を見た。


「うーん。私もね、つい二か月くらい前に失恋したの」


「えっ? そうなの?」


「うん。遠距離だったんだけど。連絡が来なくなっちゃった」


「なにそれ? 押しかけていって問い詰めれば?」


「ううん。連絡が来ないってことは、もう私に興味がないんだよ。だから、いいの。それで私、なんか新しいことがしたくなっちゃって。来月から語学留学することにしたんだ」


「ええええ?」


 私は手に持ったキャベツをぽろりとテーブルに落としてしまった。

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