第18話

小さな顔、大きくて神秘的なグリーンの瞳……の、灰色の……ネコ……ちゃん。




 猫。



 猫だったとはね。





「嶋木……それ」


「それ? それじゃない、みおちゃんだよ。かわいいでしょ? ロシアンブルーっていう猫種なんだ」


「あ……たしかに、美人さんだけど……」


「でしょでしょ? 僕の大事な美人さん」


「……猫って。あんた、彼女って」


「人間だとは一っ言も言ってない」




 ああ、確かにね。


 料理、できないね。


 だって……猫だもの。


 人見知りで嫉妬は……する、かもね?




「みおちゃんって……」


「名前、似てるね? 美欧さんと僕のみおちゃん。社会人になる前から飼ってるから偶然」




 うん……?






「嶋木の彼女が猫だってこと? もちろん、知ってるよ。画像見せてもらったことあるし」


 あとになって千晴はしれっとそう言った。


 私はちょっとイラっとした。


「知ってたのに、どうして黙ってたの?」


「猫だろうが犬だろうが、本人が彼女って言うならそれでいいじゃない?」


「そういうこと言ってるんじゃないってわかってて言ってるでしょ?」


「だってさ」


 千晴は開き直ってフンと鼻で笑った。



「それであんたは何の害を被るわけ?」


「うっ。そ、それは、害なんてないけどっ」


「それにさ」



 千晴は半眼で意地悪そうに口元を引き上げる。


「嶋木に彼女がいるって思ってたから、男嫌いのあんたも自然に接することができてたんじゃないの?」


「そ、それは……」


「むしろいいとこじゃない? あいつはフリーなのよ!」


「……」





 —―壮亮の言う、彼女のために用意されていた「ごはん」、それはキャットフード。


 まだ薬でぼんやりしている壮亮の代わりに新しい水を用意して、ついでにケージもきれいにしてあげた。みおちゃんはそっと壮亮の膝の上に飛び乗ると、彼に小さな頭を擦りよせた。甘えてる、かわいいなと思っていると、壮亮が嬉しそうに私に言った。


「窓の外、見た?」


「え?」


「ほら、あっち」


 壮亮が指し示す方向を見て、私ははっと目を見開く。


「ああ、スカイツリーが見えるんだね」


「うん。お隣の高層マンションのほうがもっとよく見えるだろうけど、ここでも捨てたものじゃないでしょ?」


 私は窓辺に寄ってみた。遠く、ビルとビルの間にスカイツリーが半分くらい見える。天気のいい今日みたいな日は、より青っぽく。


「ホワイト・レディというより、青っぽいブルィッシュ・レディだね」


 私の言葉に壮亮がくすっと笑う。


「うん。美欧さんていうよりも今日はうちのみおちゃんみたいだ」


 ロシアンブルーのみおちゃん。確かに、色が似ているかもね。



「なんでその子の名前、みおちゃんなの?」


「んー。妹が名付け親なんだ。みぉん、て小声で鳴くからだって。時々会いに来るよ」


「おとなしいね。鳴き声が全然聞こえなかった」


「ロシアンブルーって、おとなしい子が多いんだ。この子もおとなしいかな」


「ふうん。それで、嶋木には妹がいるのね」


「うん。双子なんだけど」


「えっ? 双子だったの?」


「あれ? 言ってなかったっけ? それにうちの妹はさ……」



 壮亮はみおちゃんの喉元を指先で撫でながら言った。


「男性恐怖症なんだ」


「えっ?」


 私は驚きで目を丸くした。それって、私と同じ?


「中学生の頃、塾の帰りに変質者に誘拐されそうになってさ。幸い未遂で済んだんだけど、それ以来、PTSDが強くて子供以外は中高校生からおじさんまでダメで。僕がいつも登下校一緒についてたんだよね」


「そう……」


 何て言っていいのか、正直わからない。そんな話を私にするのはたぶん……



「好意を寄せてくる相手にも警戒しちゃって、結局はダメで。もともと内気だったけど、高校の頃はますます引きこもりみたいになっちゃって。両親が親戚からもらってきたのがみおちゃんの両親ネコたちだったんだよ」


「一種のアニマルセラピーかな?」


「そう。薬は飲みたくないっていうから。それでずいぶん安定して。いまでは自宅で普通にSEの仕事してるよ」


「それはよかった」


「だから」


 壮亮は私に微笑んだ。まだ熱に浮かされた、とろけたチョコレートのような甘く柔らかい笑顔。


「美欧さんのことも、一目でわかったんだ。近くにいるうちに、トラウマがあるんだなって確信した」


「そっか」


「うん」




 じん、となにか熱いものが胸に広がって、ちょっと苦しくなる。


 やっぱり、彼は気づいていた。気づいていて、そのまま見守ってくれていたんだ。


「他人事に思えなくてさ」


 壮亮は苦笑した。私は申し訳なさとありがたさがごちゃ混ぜに交じり合って、胸が詰まった。


 冷たいとか気取ってるとか、俺のことをばかにしてるのか、何様だとか、そんな言葉をいろいろな人たちからたくさん浴びせられてきたのに、壮亮は一度もそんなことは言わなかった。


 それどころかむしろ、私が不快感を感じない距離感を保ってくれていた。



「……ありがとね」


「えっ? あー、いや、そんなお礼を言われるようなことは何もしてないよ。ちょっと、美欧さん?」


 壮亮が驚いて体を起こすと、彼の膝の上のみおちゃんがびっくりしてカーペットの上にすとんと降りる。壮亮の顔に困惑が浮かぶ。彼はあわあわと焦りだす。私が……笑顔でいたつもりなのに……なぜか、涙を流していたから。




 初めて、理解してくれる人がいた。


 それがこんなに身近にいたなんて。




 夕日を浴びたスカイツリーはさっきより白っぽく見えた。


 マンションの出口を出て振り返って五階を見上げると、バルコニーでみおちゃんを抱っこした壮亮が手を振っている。私も口元を引き上げて彼らに手を振り返し、駅へと向かう。


「あっ」


 前を見て歩こうとしたとき、つい誰かと軽く肩がぶつかってしまった。


「すっ、すみません!」


 よそ見をしていた私が悪い。謝ると、私とぶつかった人が言葉を発した。


「あ、こちらこそごめんなさい!」



 私ははっと息をのむ。


 体形にぴたりと合った丁寧な縫製のダークスーツ。ミニタイトのスカートから伸びた長く美しい脚。ハイブランドの黒のハイヒールの超絶美女。ラインストーンが施されたきれいなネイルの手には、私の給料の3か月分はするようなクラッチバッグを持っている。


 モデルか芸能人か、はたまたハイクラスのお嬢サマか……オーラが違う感じ。



 彼女は赤い唇の両端を引き上げてにっこりと笑んだ。


 彼女が来た方角には、すごく派手なイタリアの黒いスーパーカーがエンジン音を響かせて走り去っていくのが見えた。どうやら彼女はその車から降りて歩いてきたみたい。


「お互い様ということで、ね?」


 彼女は私にお茶目なウィンクをして、そのまま壮亮のマンションのお隣にそびえたつ高層マンションのエントランスに消えて行った。



 始終気圧けおされたままで、一瞬の邂逅は終わった。


 振り仰ぐと、バルコニーの壮亮が首をかしげて笑っていた。




 あとでわかったことだけど、みおちゃんが猫だと言うことを私にに言うなと口止めしたのは千晴だったらしい。まったく、呆れるわ。


 壮亮は一日だけ欠勤して、翌日は元気にいつも通り駅に現れた。


「明日からはまた、一緒に会社に行こうよ」


 別れ際に彼がそう言ったから。



 もう、会社のエレベーターの中では嫌な思いをしなくなったけれど。


 一緒に会社に行かない理由も逆にないから。



 来週は壮亮のマンションに行って、みおちゃんの誕生会に参加する予定がある。


 最近は壮亮がお弁当を作って来てくれるようになって、私たちは千晴にからかわれる。



 でも、悪い気はしない。



 時々私たちはかっぱ橋に行って、たい焼きを食べながら調理器具を物色するようにもなった。


 そのついでに年間パスを買っておいたすみだ水族館に寄って、一緒にぼんやりしてくる。



 そして壮亮の手料理を食べてみおちゃんと遊んで帰る、それが私の週末のルーティンになった。


 








【完】

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