第17話

初めて、半休を取った。



 私は自分の家から3駅遠い駅で電車を降りて、壮亮から送ってもらった住所へ向かう。マップアプリで調べて、近くのスーパーとドラッグストアに寄る。


 3駅、たった10分弱の距離なのに、初めて見る景色。



 駅から10分の、ブラウンストーンの7階建てのマンション。515号室、角部屋らしい。エントランスでインターホンを鳴らすと、明らかにしんどそうなかすれ声の壮亮が応えた。


「はい……」


「うわ。ほんとにしんどそうな声」


「ふつうさ、人んち来たらまずは名乗らない?」


「どうせわかってるでしょ? いいから入れて。荷物が重い」


「はいはい、どうぞ」



 ドアが解除されて、私はエレベーターに乗り込んだ。


 ドアの前まで行くと、ちょっと開いた隙間からどんよりとした病人顔が半分覗いていた。



 ちょっと遠慮がちに玄関に入る。


 そこには今壮亮が脱いだ黒いクロッグサンダルがハの字に置いてあるだけ。


 私はその隣に靴を脱いでそろえた。



「おじゃまします」


 遠慮がちにそう言って、よろよろと先立って歩いていく壮亮に続いて入る。職場の同僚の家は、千晴の部屋と、その彼氏で私の同期でもある太一の部屋くらいしか尋ねたことはないので、壮亮の家とはいえどちょっと緊張する。


 彼は奥のリビングまで行って、ソファにころんと転がるように座ってぺこりとお辞儀した。



「御覧の通りの病人で、なにもおもてなしできませんがようこそ」


 私は買ってきた食料の袋を床において同じくお辞儀する。


「あ、いえいえ、お構いなく。とりあえずプリンとかフルーツゼリーとか買ってきたけど、食べる?」


 ローテーブルの上にプリン、ミックスフルーツゼリー、ミルクプリン、ビタミンゼリーを一列に並べてみる。それを見て一瞬呆れた後、壮亮はぷっと吹き出した。


「なにこれ? なんでとりあえずこんなにいろいろ買ってきたの?」


「ええ? だって、今は何を食べたい気分なのかわからないから」


「はは。ええとね、じゃあ、これ」


 ソファにもたれたまま、壮亮はミルクプリンを指さした。クッションに頭を預けたままで、ぐったりしている。普段は元気な人がそんな弱った姿でいると、なんだか妙に胸が苦しくなる。


 私はミルクプリンのフタを開け、プラスティックのスプーンを挿して差し出した。それを見て壮亮はまた力なくはははと笑う。



「なによ?」


「いや。やっぱり、美欧さんは美欧さんだよね」


「なに訳の分からないこと言ってるの?」


「スプーン。中身に豪快にぐっさり挿して渡してくるあたり」


「……笑いすぎだよ」


 挿したらいけないわけ? そっと壮亮の手の上にミルクプリンを置く。それにしても……



 西向きのリビングの窓からは、午後の日差しが降り注いでいる。今まで寝ていたのだろう、髪がボサボサに乱れている壮亮はTシャツにスウェット姿でソファに沈みこんでいる。リビングにはあまりモノがなくて整然としていて、あまり生活感が感じられない。



「もしかして、ここに引っ越してきたばかりとか?」


 私はリビングを見渡して首をかしげた。


 ミルクプリンを食べながら壮亮は首を横に振った。


「入社以来、ずっと住んでるよ。あんまりモノを置かないようにしてるだけ」


「そっか。ミニマリストってやつね」


「そういうのかどうかわからないけど。実家の部屋も同じようなものだよ。美欧さんは……いろんなものごちゃごちゃ置いていそう」


「なんでわかるの?」


「そりゃね。わかるよ。長い付き合いだから」



 なんでよ?


 熱でしんどそうだから、そういうことを訊いてもちゃんとした答えは返ってこなそう。私はテーブルの端に載っている体温計を、壮亮の額にピッとあてた。


「37度8分。ちょっと下がったね」


「うん、ピークは越えた気がする」


「うどん買ってきたけど食べられる? あんまり料理得意じゃないけど、作ろうか?」


「うん、食べる」



 ミルクプリンを食べ終わった壮亮は、そのままソファでぼんやりしている。私はキッチンを借りてうどんをゆで、野菜を切ってうどんと一緒に煮込む。


 出来上がったので器に盛り、テーブルに運ぶ。



「うわぁ。いいね、病気でなにもできない時に、誰かがご飯を作ってくれるって」


 壮亮はうどんを見て嬉しそうにそう言った。


「彼女さんは作ってくれないの?」


「料理できなから」


「そうなんだ?」


 壮亮の彼女さんは料理しないのか。



「美欧さんは関西出身だったっけ?」


「違うけど、どうして?」


「スープの色が薄いから」


 鶏がらスープで野菜とうどんを煮込み、最後にたまごを落としてある。


「ああ、うどんの時はね、いつもこうなんだ。風邪気味の時はね、鶏がらスープにちょっとすりおろしたショウガを入れるの。うっかり自分流で作っちゃった。普通のがよかった?」


「いいや、野菜の出汁がでてて、すっごくおいしい。ショウガも体があったまるし」


「よかった。まともにできるレパートリーが少なくてね。これはそのうちのひとつ」


 スープまですべて平らげて顔色が少し良くなり、薬を飲んで一息ついた壮亮は申し訳なさそうに私に言った。



「美欧さん。お願いがあるんだけど」


 私は首をかしげた。


「うん、何? できることならするけど」


「実は」


 壮亮は視線を泳がせて短い廊下の奥のドアを差し示した。


「あっちの部屋にさ、同居人がいるんだけど」


「えっ?」


 私は驚いて目を見開いた。まさか、彼女さんとは同棲中だったとかなの? でも、玄関には女性の靴はなかったし、部屋も複数人が暮らしている気配も感じられない。それに人の気配も全くしないのに?



 いくら同じ職場の後輩で仲がいいからと言って、やっぱり彼女のいる男性の部屋に(食糧調達とお見舞いとはいえ)上がり込むのはいけなかったかな? いや、さっき、彼女さんはご飯を作ってくれないのかとか言ってしまったけど、聞こえてたかな? 


 もしも彼女さんがすでに誤解して嫉妬していたり怒ってしまったりしていたら……どうしたらいい?! 私、修羅場とか無理なんだけど?!


 もうすでに、いろんな意味で……ヤバい。



「美欧さん……大丈夫だよ、彼女は怒ったりしないから。嫉妬はするかもしれないけど」


「ええ? し、嫉妬って? えっ? 誤解されたらどうしよう? てか最初に言ってよ! ご挨拶してないのに……」


「いや、大丈夫だから、落ち着いて。ちょっと人見知りするから閉じ込めておいたんだ」


「……」


 と、閉じ込めて、おいた? って……ええっ?! 




 まさか。壮亮に限って、DVはありえないはず。閉じ込めておいただなんて? 彼女さんにはベタ惚れで、とても大事にしてる感じじゃないの?


「美欧さん。彼女にもご飯あげたいんだ。連れてくるから。会ってくれるよね?」


「……ぅぅ」


 な、なんだか……どう反応していいのかよくわからなくて、頭の中が真っ白のまま絶句してしまう。


 壮亮の話から、彼女は大企業の高層階のオフィスで働く年上のバリキャリさんかなと勝手に想像していたのに。でもそうではなくて、イラストレーターとかプログラマーとかの在宅で仕事している人なのかな? それとも、日常生活がままならない寝たきりの病人とか??????


 

 いずれにせよ、私、ちょっと……いやだいぶ非常識で失礼な人なんじゃない? 中に通されてからすでに数時間経ってるのに!


 固まる私をしり目に、のろのろと立ち上がった壮亮はそちらの部屋のほうへ歩いていく。


 ドアを開け、そして戻って来た彼を見て、私は口をぽかんと開けて呆然とする。



 ええ? そんな……そんなことって……?



 

 私は固まったまま呆然とした。



 私の視線は、壮亮の「彼女」に注がれている。


「美欧さん。紹介するね。ウチのみおちゃんだよ」


「……」




 そんな。




 壮亮の彼女さんって。

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