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第16話
「なんだよ、さっきから呼んでたのにさぁ」
ふぅぅぅぅっ。
たばこ臭い息が私の髪にかかる。ぞぞっと、手を置かれた肩に悪寒が走る。ていうか、ずっと肩に手を置いたままにされている。
「あ、は、の、野木さん。お、おはようございます。早いですね!」
振り返るときに身をよじり、私は野木の手から逃れた。
「うん。キミも最近早いみたいじゃないか。見かけないなと思ってたら」
「ちょっと、集中したいことがあったので、フレックス申し込んだんです」
無難に笑えてるかな? 嫌悪感表情に出ていませんように。
がしっ。
今度は両肩に手を掛けられて、背後から肩越しにPCを覗き込まれる。思わず悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえた。どうしよう? 早朝でひとがいない。悲鳴を上げても誰も助けてはくれなそうだ。
「なになに? どんな仕事してるんだ?」
いやいやいや、覗かないでほしい。てか、なれなれしすぎで怖い。吐くかもしれない。吐きそう。いや、いっそ吐いてやろうか。
私のうなじのあたりで野木がすううううっと深く息を吸い込んだ。本当にキモい。
「あの、野木さん。覗き込まないでください。これ、課長の案件なので」
「大丈夫だよ~。俺が見てあげたほうがアドバイスできるじゃないか」
「い、いえ、結構です。課長に見ていただいたものの修正なんで」
お願い。手を離して。肩に体温が伝わってくるのがすっごく気持ち悪い。
「相変わらずつれないなぁキミは。うーん。シャンプー変えた? それとも香水かな?」
またすううううぅぅとにおいを嗅がれる。気絶しそうなくらいキモい。いや、気絶したらさらに大変なことになりそうだ。どうしたらこの状況を打開できるだろうか。必死に頭をフル回転させる。
「ちょ、あの、野木さん、離してください。ほんとに、困ります」
「キミはいつも反応が過剰なんだよなぁ。チューするわけでも胸触らせろって言ってるわけでもないし、こんなの軽いスキンシップじゃないか」
「スキンシップ」という和製英語自体キモいのに、野木が言うとキモさはMAXになる。髪の毛が一本残らず逆立ちそうだ。もう言ってることすべてがセクハラ。
「ねぇ、神崎ちゃん。今日仕事が終わったらどっかご飯行かない? キミと飲みたいなぁ」
だめだ。意志に反して体が限界を超える。そうだ。痴漢用のブザーが足元のトートバッグの中にある。鳴らしてやろうか。思いっきり叫ぶのもいいな。もう、どうなっても構わない。野木に触られている今の状態がもう我慢の限界だ。
野木の手が私のブラウスの肩のうえをすすすと滑り、ブラのストラップに引っかかった。ぶるぶると震える手でデスクの上のペンを取って野木の手を刺そうと決めたとき、ドアの向こうから大股の足音と聞き慣れた大きな声が不意に聴こえてきた。
「せんぱーい! 朝食買ってきましたよ! コーヒーとアーモンドクロワッサン! あ、それともチョコクロワッサンのほうがいいですか?!」
私も野木も声のほうを見て唖然とした。バックパックを背負ったスーツ姿の壮亮が、カップホルダーに入れたコーヒーふたつと紙袋を持ってまっすぐに私のほうに歩いてきた。
「あれ? 野木さん、早いっすね! 先輩、ご飯買ってきたんで休憩室行きましょう!」
野木が何か言葉を発する前に、壮亮は私の手をグイっと引っ張って立たせ、そのままぐんぐんと歩き出した。野木に話しかけておきながら、会話をしようという気は全くないみたいだった。私も振り返ることもしなかったから、野木がどんな表情をして私たちを見送ったのかまったくわからない。
「どうして……?」
私はぐんぐん引っ張られながら、それだけをやっと発した。
オフィスを出て廊下を進み、角を曲がってさらに20メートルくらい進んで休憩スペースに着くと、壮亮は私をベンチソファに座らせた。
「どうしてじゃないでしょ?!」
彼は私の足元にしゃがんで私を見上げた。怒ってる。怒った壮亮は初めて見る。彼は紙袋とドリンクホルダーをテーブルに置き、自分のスマホを私の目の前に掲げた。
「もう野放しにしちゃだめだよ。さっきの一部始終は動画に撮ったから。美欧さんの顔は見えてないから大丈夫。でもあいつはもうアウトだ」
「で、でも、そんなことしたら……」
「あのさ。もしあのまま僕が行かなかったらどうなってたと思う? 何されてたかわからないよ? 早朝で誰もいないのに。やめてくださいって言ってやめるような奴だと思ってた?」
壮亮の目が吊り上がっている。深いため息をついても肩も唇もわなわなと震えている。私は申し訳なさに悲しい気持ちになった。肩を落としてうつむくと、壮亮はそっと私の耳の後ろに手をかけて私の顔を上向かせた。
「大きな声を出してごめん。怖かったのは美欧さんなのに。あの人、気に入った女子社員の行動パターンを何人か覚えてて、ストーカーまがいの付きまといを繰り返してきたんだ。その中に美欧さんが入ってるってわかって、ここ数日ずっとあいつを見張ってたんだよ」
「えっ?」
「総務部長に相談したら、証拠さえつかめればすぐにでも処分を下すって言うから。すぐに助けに行かなくてごめん。でもお陰で、決定的なセクハラの証拠が取れた」
彼は私の頭をそっと自分の肩に載せて私を抱きしめた。不思議と、何の嫌悪感もなかった。それどころか、じんわりと大きな安堵感に包まれた。
「ごめんね、こんなに真っ青になって震えてるのに。怖かったでしょ? ほんとにごめんね」
優しい言葉を掛けられて、私は不覚にも涙をこぼしてしまった。
ストレスが極限にたまっていた。
それからちょっと恥ずかしいことに、私は壮亮に背中を撫でられながらしばらくの間めそめそと泣き続けた。
それは私たちのオフィスだけでなく、会社全体を騒然とさせる大ニュースに発展した。
壮亮の告発を受けて、総務の壮亮の同期が一念発起した。彼は女子社員たちに秘かに聞き取り調査をして、野木のいやがらせセクハラの実態解明に奔走した。初めは報復を恐れていた女子社員たちも、壮亮たちの説得が功を奏してだんだんと考えを変えていった。やがて上の人たちまでセクハラの実態を知ることとなり、社長の耳にまで届いた。
壮亮が撮った動画が決定的な証拠となり、防犯カメラの映像も相まって野木は解雇処分となった。
証拠が動画に移っていることもあり、私も総務に呼ばれて聴取を受けた。今までのエレベーターのことや飲みや食事の誘いを断った後のいやがらせ業務も告発した。ほかの女子社員たちも同じことを訴えたので、その日のうちに野木は自宅待機となり、それから出社することなくクビになったみたいだった。
それからしばらくの間、壮亮のデスクの上には女子社員たちからの感謝のお菓子が山積みになっていた。
その事件から三日後。
壮亮が会社を休んだ。
「嶋木、病欠らしいよ。欠勤連絡私が電話受けたんだけど。風邪ひいちゃったみたいね」
千晴がそう言って肩をすくめた。
「頑張りすぎて知恵熱が出たのかもね」
あはは、と笑ってはいたけれど、彼女なりに心配しているみたい。しきりに、私に電話してみろと言い続ける。何度も言うから根負けして、私は昼休みに壮亮にメッセージを送ってみた。もしかして、私のせいもあるかもしれないしね。
【大丈夫?】と送ってみると、三分くらいで返信が来た。
【39度の熱でしんどい】
すぐに電話してみると、弱々しいかすれ声が聞こえた。
「薬は? 医者は?」
「午前中に行ってきた。薬はもらってきたけど、食べるものがなくて」
「今一人なの?」
「うん。何か買いに行く気力もない」
罪悪感が私の心臓にぐっさりとつき刺さった。
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