第15話

結局、その日は壮亮はかっぱ橋でチーズおろし器とたい焼きの木型を買っていた。彼女さんのプレゼンとはどうした?


「なによ、それってさ……」


 日曜のことを話すと、千晴は呆れ顔で言った。


「ただのデートじゃない」


 私ははは、と笑い飛ばした。


「はぁ? そんなわけないよ。あ、普段のお礼に私が奢ってあげようとしたのに、結局お昼のもんじゃも奢ってもらっちゃったな」


「だからそれって……まぁ、いっか。楽しかったみたいだしね」


「ねぇ、千晴はたい焼きはどこから食べる人?」


「ええ? 別にその時の気分かな。ちなみに太一はしっぽからって決めてるらしいよ」


「なるほどね……」


「あんたはどうせ顔のほうから食べるんでしょ?」


「えっ? どうしてわかるの?」


「なんとなくね」


 千晴は手をひらひらと振った。



「嶋木の彼女ってさ、どんな人なの?」


「うーん。休日も別行動。ネコを飼ってるっぽい。たぶん、さっぱりクールなタイプ。彼女には私のことよく話してるんだって」


「は? なにそれ」


「やっぱり尊敬できる先輩ってことじゃない?」


 私が一人で悦に入っていると、千晴は冷たい視線を横目で送ってきてため息をついた。


「彼氏から他の女の話を聞かされたら、たとえ職場の先輩でも普通は面白くないと思うけどな」


「やきもち焼きじゃないみたいね。それで思ったの。あの子の彼女さんって、私たちよりも年上かもね!」




 —―なんて、のんきなことを言っていた、その日の夜。



 千晴と駅前のバルで軽く飲みながらご飯を食べていた時。


「あれ?」


 明かりがあふれかえる夜の通りを見て、千晴が目を細めた。


「なによ」


 どうせ会社の誰かが通ったとか、そういうことだろう。当然のことながら、最寄り駅なので、知り合いがたくさん通ってゆく。


「あらあらあら」


 千晴の口元がくいっと引き上げられる。私は彼女の視線をたどってみた。そして思わず目を見開いてしまう。


 二車線の通りは車がビュンビュンと行き交っている。むこう側の道にあるカフェバーの前。今朝出勤した時と同じスーツ姿の壮亮が、バックパックを背負って何やらそわそわと左右を見回している。腕時計にちらりと視線を落としてはまたあたりをきょろきょろ。あれはどう見ても……


「誰かを待ってるみたいね」


 頬づえをついた千晴が、通りの向こうの壮亮から視線をそらさずにつぶやく。


「そうみたいね」


私も同じように頬づけをついて壮亮を観察する。



「あっ」


 千晴が無意識に小さな驚きの声を上げる。私ははっと息をのむ。



 駅側から歩いてきた女性がひらひらと肩のあたりで手を振った。白っぽい色のパンツスーツは絶対に高価な仕立ての良い感じ。7㎝くらいの黒いハイヒール、明るい色の少年みたいなショートカットの髪がふわりと風になびく。華やかな顔立ちで、赤系の鮮やかな唇。細い金のチェーンのアメリカンピアスが耳元で揺れている。


「ほほぅ。すごい美女ね」


 千晴がちらりと私を横目で見てにんまりと笑う。


「あれが噂の彼女さんかしらね?」


 正直、子供っぽい感じの壮亮にそんな大人の女が笑顔で手を振るとは意外な気がした。壮亮は彼女に気づくと右手を少し上げて笑顔を返した。彼女は壮亮の前まで来ると彼にハグをした。


「あらあら。ほんとに結構年上のようね」


 千晴の声が笑ってる。



 壮亮は彼女にハグされて、その背をポンポンと叩いている。そして彼女が体を話すと見つめ合って、お互いににっこりと笑んだ。誰が見てもとても親密そうだ。


 ふたりはカフェバーの中に入って行った。




「あんたの勘はあたりね。彼女が年上。でも予想を上回る年の差っぽいわね」


「今時、トシは関係ないんじゃない? 二人とも幸せそうだったし……」


「会社の最寄り駅近くでハグしちゃうくらいなら、見られても構わないってことよね」


「いいでしょ。それだけちゃんとした付き合いなのよきっと」



 なんて、言ってはみたけど。



 ちくり。



 なんか、ちょっとだけ悲しいような寂しいような、妙な感じ。



 私ったら。


 一体、何を浮かれていたんだろう?


 嶋木壮亮は、ただの後輩なのに。


 彼には彼女がいるのに。



 なんだか、あって当然と思っていたものが自分のものじゃないって改めて認識した後の寂寥感みたいなものを感じる。



「ねえ、千晴……」


 私は二人が消えたカフェバーのドアをぼんやりと見つめながら親友に言った。


「やっぱり申し訳ないよね。朝は……もういいよって、言わないとね」


「なんでよ? 別にいいじゃない、会社で野木避けにするくらい。彼女の許可も取ってあるってあの子言ってたし。何より本人が、あんたを助ける気満々なんだから頼ってていいと思うよ?」


「いや、でもさ……そのうち彼女が気分を害するかも……」


 ほう、と無意識にため息をついた私に、千晴は唇を尖らせて言った。


「なによ。後ろめたいの? あんた、嶋木のこと好きなの?」


「どうしてそうなるのよ? もちろん、後輩としては好きだけど」


「後輩としてだけじゃなくなってるから、後ろめたいんでしょう? それとも、自覚がないの? あんたが怖がらない唯一の男なのに?」





 ああ、大変。



 大変じゃない?



 そんなことって。




【来週からしばらくは三本早い電車で出社するから、一緒に出社してくれなくて大丈夫だよ】



 そんなメッセージを送ってみた。


 そうよ、後輩だからって甘えてはいられない。今まで(多少嫌な思いをしながらも)自分で対処できていたんだから、元に戻るだけよ。


 電車の中は専用車両だからいいとして、駅の改札までの人混みは気を抜かないように気を付けて、いや、ラッシュアワー前に通り抜ければ人もそんなにいないはず。エレベーターだって野木が出社する前に乗ればいい。寝過ごしたら、階段で。


 余りにも安心で快適だからと、壮亮を頼り過ぎていたのだ。彼は、私の後輩。彼女がいる人。いつまでも新設に甘えていてはいけない。



「美欧さん、そんな早くに出社して、何の仕事があるの? 今はそんな急ぎの案件ないんじゃんなかったっけ?」


 壮亮がいぶかしげに質問してくる。隣からの千晴の視線が私の横顔に刺さる。私は苦笑して首を横に振る。


「はは。いえ、ちょっと、ね。ふ、フレックスよ。おかげで電車もエレベーターも快適よ」


「しばらくって、いつまで?」


 その質問には、答えづらかった。だって、明確な答えがないから。


「うん、たぶん……再来週、いや、その次の週……来月くらい、かな?」




 壮亮は納得いかなそうに首をかしげていた。千晴は呆れて首を横に振った。私も、どうしていいのか分からなくて困ってるのに。


 でもとりあえず、会社でだけ話す程度なら大丈夫。きっとそのうち平静な気持ちに戻って、あれは勘違いだったと思えてくるだろう。


 基戻らなくては。相手は壮亮だ。仲のいい後輩。そして彼女持ち。いくら唯一、安心して一緒にいられる異性だとしても、勘違いしたままではいけない。


 時間が立てば私も落ち着いて冷静な判断力を取り戻して、きっとこの動揺は気のせいだったと笑えると思う。



 そんなことを自分に必死に言い聞かせながら寝不足状態で早い電車で出社して十日くらい経った頃、それは起きてしまった。



 誰もいない早朝のオフィス。慣れてくれば結構快適だ。


 人がいないと仕事がはかどる。鼻歌を歌いながらPC操作しても、誰にも迷惑はかからない。



 その日もオフィスに一番乗りで自分の席で月末の職場会議の資料を作っていた。図表のレイアウトに集中していたせいで、ちっとも気づかなかった。



 ぽん、と誰かに肩に手を置かれて私はびくっと身を縮めて小さな悲鳴を上げてしまった。

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