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第13話
「ねぇ。エレベーターの前で待つより、駅のホームで待ち合わせしようよ」
壮亮は遠足に行く前の小学生のように目をキラキラさせながらそう提案してきた。
彼は、私が女性専用車両に乗って来ることを知っている。路線は同じで3駅前から乗って来るらしい。時々、同じ時間に到着する電車なのには気づいていた。
「電車がついたら、専用車両に一番近い階段のところまで行くよ」
「そんな、悪くない?」
「別に同じ電車だしいいよ」
「一緒にいて、変な噂が立ったら嶋木の彼女にも申し訳ないよ」
「あー、大丈夫大丈夫。うちの彼女さん、入社した時から美欧さんのことよく話してるから、ちゃんと痴漢避けになってあげなさいって言ってた」
そんな心の広い彼女さんなの? と疑問に思うけれど……まぁ、別にやましいことでもないから、私も深く考えないでおこうと思いなおす。
「これは改めて何かお礼しないといけないね……」
苦笑する私に、壮亮は満面の笑みでうなずいた。
「それならさ、彼女さんの誕生日が近いから、今度一緒にプレゼント見つけにつき合ってくれると助かるかな」
「そうなの? うん、いいよ」
私は二つ返事でOKした。
オフィス街の駅の改札は、朝のラッシュアワーは人でごった返す。人込みで故意か事故かわからないが、微妙なところを触られたこともある。そのことも壮亮は知っているようで、だからこそついでに駅から一緒に行こうと提案してくれたみたいだった。
後ろに誰かがいてくれるなんて、思った以上に心強い。誰にも小突かれることなく、誰とも接触することもなく改札を通り抜けられた。会社までの7分ほどの道を、いろいろな話をしながら行くのも楽しい。仕事での面白いことや誰かの失敗談、共通の上司の真似をしたり、まじめな仕事の話をしたり。あっという間に会社に着いて、エレベーターを目指す。
「あ」
私は小さく呟く。
エレベーター待ちの行列の中に野木がいる。偏見かもしれないけれど、行列の中に密着する女子社員を物色しているみたいに見える。まがい無き変態だわ。ちらりとこちらを振り返って、口元が少しにやりと上がったのを見て吐きそうになる。
「あいつ、やる気みたいだね」
少し後ろで壮亮が小声で言う。私はうなずいた。
エレベーターの扉が開く。定員ぎりぎりまで人々が乗り込む。壮亮は私の後ろにすまして乗り込む。私は操作パネルの反対側の隅に自然と追いやられる。すると、いつの間にか野木が私の後ろにちょこちょこと移動してくる。
「……」
ただでさえ、満員のエレベーターの中は不快極まりないのに。さまざまなにおいが混じった人いきれ。服に染み付いたいろいろな匂い、喫煙者のたばこ臭、つけ過ぎた香水やコロンのきつい香り。そしてパーソナルスペースなんてどこにもない、拷問のような密着ぶり。
男性としてはあまり背の高くない野木は、ヒールを履いた私とは大体同じくらいの背の高さ。不快な密集角度に体を少しよじって首をひねると、大きな顔がすぐ目の前でニヤけた。思わず、背筋に悪寒が走り腕に鳥肌が立つ。
目礼して、何とか顔を背ける。と、目の前に上部からスーツの肩が広がって、あ、と呟く間に私の体が反転して視界にはエレベーターの角っこが入ってきた。
「?」
何が起きたのかと首をひねって後ろを振り返ると、壮亮が私と野木の間に割って入ってくれていた。野木の姿は背の高い壮亮の陰で完全に隠れていて見えない。私は感動で目を見開いて頭上を見上げた。
ふ、と微笑む顔が見えて、不思議なくらい安心した。
降りるときも腕でかばいながら私を先に進ませてくれたおかげで、他の人たちとの不快な接触は一切起きなかった。野木に関しては、降りてからも姿は見えなかった。
「うわぁ……」
私は感嘆の声を漏らした。
「こういうことだよね?」
褒めて褒めて、というような嬉しげな声が降ってくる。私はまた背後を振り仰いだ。
「感動した……」
「でしょでしょ?」
「ありがとう……通勤でこんな快適にエレベーター乗れたの、初めて」
「それ、褒めた? 褒めたんだよね?」
「褒めた。感謝した」
よし、と壮亮はガッツポーズをした。そして私を追い抜いてオフィスに入ると、千晴のところまで飛んで行って報告と自慢を始めた。
「野木避け」というか「痴漢避け」というか。
壮亮のガードのおかげで、普段の不快な思いをせずに一週間が過ぎた。
「ねぇねぇ、美欧さん。日曜日。買い物、つき合ってくれる?」
私に続いて人でごった返す改札を抜けると、壮亮が並んで歩きながら嬉し気にそう言った。
「ああ、彼女さんの誕プレね?」
思い出した。お礼。
まあ、いいか。壮亮なら二人きりでも、歩いていて多少手が触れても怖くはない。快適な通勤時間を送れるようになったお礼としては、買い物につき合ってご飯をおごってあげるくらいしてもいい。
第一、彼は(入社時から私のことを話していると言っていたから)数年来の付き合いの彼女みたいだし。先輩として慕ってくれているだけだから、私としても負担なく一緒にいられる。
「日曜なのに、デートしないの?」
何の含みもなくふと思った疑問を問いかけてみると、壮亮は肩をすくめて言った。
「彼女は自分の時間を大事にするタイプでさ。時々、冷たすぎるほどクールなんだよね」
「はぁ。なるほどね」
壮亮の彼女は、自立した女性なのね。もしかしたら私よりも年上かも?
今まで彼女がいるということ以外、彼のプライベートは知らなかったからちょっと新鮮。
なぜか? 大型ショッピングモールのペットショップの前で待ち合わせ。
小さなピンク色のお腹を上にして眠る生後4か月のマルチーズとプードルのミックス犬をうっとりと眺めていたら、後ろから声が降ってきた。
「犬派なの? 美欧さんは」
振り返ると……壮亮が拳で口元を隠しながらくすくすと笑って立っていた。会社では(当然ながら)スーツ姿だけれど、今日は違う。カーキ色のオーバーサイズのコットンTシャツにジーンズ、黒のメッセンジャーバッグ。普段は後ろに流している前髪が下りていて、だいぶ印象が違う。
「い、犬派なら、なんなの?」
訳の分からない答えをすると、彼はますますおかしそうに目を細めて笑う。
「別に、何でもないけど。ちなみに僕は猫派だよ」
「猫派だとしても、この神々しいまでのかわいさにはほだされるよね?!」
私はケージの中の子犬を指さす。壮亮は笑いながらうんうんとうなずく。
「かわいいよね。意味もなく転がして撫でまわしたくなるくらい」
「猫もかわいいけどね。小さい子は好奇心旺盛すぎて疲れるから、猫なら大人の落ち着いた子がいいな」
「あー、なるほど」
「昔、友達が一泊留守にするからって生後三か月の子猫を一晩預かったことがあって。寝てる時にはがしてもはがしても顔によじ登られて……眠れなかったことがあったから」
「あはははっ! 遊んでほしかったんだよ、その子」
「ケージに入れたらにゃーにゃーずっと鳴くしね。出すとツメ立ててよじ登って来るしね。小さな悪魔だったわ……って、笑いすぎだから」
私は壮亮のTシャツの袖のあたりをぺしっと叩いた。
「どうしてペットショップ前で待ち合わせなのよ?」
「んー。新しい猫用のおもちゃとかベッドネストとかさ。そういうのあげても喜ぶし、と思って」
「あ、そうなんだ? じゃあ、入ろうか」
彼女さんはたぶん、猫を飼っているのね。
だから、「猫派」か。なるほどね……
納得してぼんやりと前に進むと、私はいきなり壮亮の背中に頭をぶつけた。
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