White Lady

第12話

私は、男の人が怖い。



 高校生の時に、電車の中や道を歩いている時なんかによく痴漢に遭ったから。すれ違いざまに卑猥なことを言われたり、夜道で後をつけられたりしたから。


 何も知らない人にとっては、私の態度はすごく失礼かもしれない。でも、すれ違う時や背後で足音がするときはびくびくとして本能的に身構えてしまう。これはいわゆるトラウマというやつだろう。



 すべての人が怖いわけではない。彼氏だっていたことはある。友達なら大丈夫。でも距離感が近すぎる人は友達でも知り合いでもダメ。無意識に嫌悪感が出てしまっているみたいで、そんなに嫌がらなくても、と苦笑されることもよくある。傷つけるつもりはないけれど、怖いものは仕方がないじゃない?


 だから電車やバスでは座席には座らない。もしも隣に男の人が座ったら居心地が悪いから。飛行機や全席指定の特急に乗らなければならないときは、隣に女の人が乗って来ることをひたすら祈る。もしも男の人だったら、極力身を縮めて、体が接触しないようにずっと緊張したままでいる。




 大学に入ってからも社会人になって数年経った今でも、基本的には同じ。先輩や同僚が飲みの席で隣に座ってきた時は、さりげなくよけて逃げる。事情を知っている女友達が協力してくれたりもする。



「そんなんじゃ彼氏もできないよね?」


 私のことをよく思っていない子が、皮肉めいた口調で意地悪そうに訊いてくることもある。お願いだから、放っておいてほしい。あなたに迷惑はかけていないでしょ。そう言いたいのをぐっと堪えて、曖昧な苦笑を薄く浮かべてごまかす。そんな人にちゃんと説明しても無駄なだけ。




美欧みおう。どうしたの? 顔、真っ青だよ」


 出勤して自分の席に着くと、隣の席の千晴が私を見るなり眉をひそめた。


「うん、さっき、エレベーターの中でちょっと……」


「えっ? もしかして、野木?」


「千晴……呼び捨てはまずいよ。誰かに聞かれたら……」


 私は彼女のほうに体を傾けて声を潜める。私たちはちらりと同じ方向に視線を送る。私たちの4年先輩の野木チームリーダー。女子の新入社員を捕まえて上機嫌で何やら話している。距離感、おかしいくらい近い。彼女は愛想笑いで困惑を必死に抑えている。


「あいつ。会社がハラスメントをなくそうって言ってる傍から。キモいわ」


 千晴は忌々し気に吐き捨てる。私はため息をつく。


「今日はすっごくキモかったよ。背後でごそごそ動いて、うなじに鼻息がかかってきたの。手がちょうど、私のおしりのあたりにあって、無駄に動くの」


 思い出すだけで悪寒が走る。あれは偶然でも不可抗力でもなく、確信犯に決まっている。


「わぁぁ、ヤダ。災難だったね」



 野木は女子社員の間では評判が良くない。必要以上に体に触れてきたり、背後から肩のあたりにふいに覗き込んできたり、きわどいことを言ってきたりするから。冗談だと思っているのは本人だけで、言われるほうは不快でたまらない。ゴマすりでちゃっかりものだから部長に気に入られていて、うまく立ち回るためにみんな表立って文句が言えないのだ。


 数年前に後輩の女子社員を捕まえて結婚したらしいけれど、今でも誰彼構わず若い女子社員たちを食事や酒に誘う。断ると、面倒な仕事を押し付けてきたり意地の悪い指示をしてきたりする。


 私も千晴も、そのいやがらせは経験済みだった。



「はぁ。あんなのがまだ存在するなんてね。ますます美欧のトラウマが増えちゃうよね」


「うっかりしてた。いないと思って乗ったら、あとからするりと入ってきたのよ」


 千晴は両手で自分の腕を抱きかかえて身震いをした。


「ああ、キモ。自分のことモテ男だと思ってるところもめっちゃ勘違いしてるし」


「女子社員の敵だよ」


「うんうん。同意。階段で来るのも毎回じゃしんどいしねぇ」


 野木と一緒のエレベーターに乗りたくない女子社員は、みんな出勤時は階段を利用していた。あるいは結構早めに出社するとか、彼が乗ったのを見届けてからそのあとに乗るとか。


「どうして私たちがそんな労力を使わないといけないかな」


「だよね。なんかやらかしてクビになればいいいのに」


 こそこそと話していると、背後から声がした。



「なに? 朝っぱらから機嫌悪そうだね、お姉さんたち」


 振り返ると、いつもの生意気そうな無邪気な笑顔が私たちを見下ろしていた。2年後輩の嶋木壮亮そうすけが、空のクリアファイルで私と千晴の頭をぽんぽんと叩く。


「先輩の頭を何だと思ってるの」


 千晴が不機嫌そうにクリアファイルを手の甲で払いのける。私は微かに顎で野木を指し示す。壮亮はああ、とうなずいて私に言った。


「なに、またあいつに何かセクハラされたの?」


「そう。いつものように、グレーラインでね」


 私は小声で早口で応えた。壮亮はため息をついた。


「ああ、そういうの、あいつ上手いよな。女子の天敵だな」



「そうだ、嶋木」


 千晴は目を丸くして両手をぽんと打った。


「うん、なに? 千晴さん」


 壮亮は首をかしげた。生意気そうなため口をきいても誰も彼をとがめない。新入社員で私が面倒を見たうちのひとりで、何かとなついて寄ってくる。私が会社で平気で接することができる異性のひとり。


「あんたが朝は1階の玄関口で美欧を待ってあげて、一緒にエレベーターに乗ってきてあげればいいんじゃない?」


 千晴の突拍子もない提案に、壮亮は眉をひそめる。


「えー? どうして? 美欧さんは僕の彼女でもないのに、そこまでしてあげる義理はないんだけど?」


 千晴は壮亮の腕をぱしっとひっぱたく。


「うるさいよ。さんざん仕事のしりぬぐいをしてもらったでしょ? 先輩が嫌な思いしてるんだから、そんぐらいしてもいいんだよ?」


「いいよ、べつに。嶋木、聞き流しといて」


 私は苦笑して首を横に振った。パワハラ案件になったらどうするのよ?


「ちなみに、今日は何されたの?」


 壮亮の質問には千晴がすかさず答える。


「後ろから息かけられて、おしり触られたんだって」


「はぁぁぁ?!」



 いきなり大きな声を上げた壮亮に視線が集まる。私と千晴は急いで壮亮のスーツのジャケットを引っ張る。彼は私たちに引っ張られてしゃがみ込む。


「それ……ダメだろう……」


 壮亮は呆然とする。千晴はうんうんとうなずく。


「でしょ。私はいいよ、太一と一緒に乗ってるからね。少なくとも、エレベーターの中は。でも美欧はあいつの好みのタイプらしくて、狙われやすいから」


 太一とは私たちの同期で、別の部署にいる千晴の彼氏のことだ。


「だからって本人が嫌なのに狙って触っていいものじゃないよ!」


 拳を固く握りしめ、わなわなと壮亮が震える。心なしか、顔が少し青ざめている。


「うんうん。だからさ。あんたでかい図体なんだし、野木けになってあげなよ」




 朝礼が始まり、壮亮は自分の席に戻って行った。


「わかった。野木け。やってやる!」


 そう言っていた。



 私はため息をついた。彼の言うように、そこまでしてもらう義理はないのに。本当に壮亮にそんなことをさせたら、彼を狙っている若い女子社員たちから何を言われるかわからない。単なるメンターだった時も散々変な噂を広められたのに。


「いいじゃない? 強制はしてないよ。本人がやるって言ったんだからさ」


 千晴は満足げに笑い飛ばした。



 壮亮はきっと、姉がセクハラされたみたいに感じたのかもしれない。彼は先輩としての私の仕事ぶりを尊敬しているみたいだし、人間性も好感を持って慕ってくれている。だから私も彼をかわいい後輩だと思っている。それに何よりも、私とよく一緒にいるうちに彼は私の男性恐怖症に自然に気づいたようだった。



 訊かれたことはないけれど、絶対に気づいていると思う。そういう前提で千晴が自然に私の恐怖症にまつわる話しても、彼は驚かなかったから。



 だから壮亮は必要以上に私に触れることはない。近づく距離にも細心の注意を払ってくれているように感じる。そのうえで気さくに接してくれるからとてもありがたい。



 それでも……



 エレベーターの前で私を待たせることには、かなりの罪悪感を感じる。

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