第11話

「そんなに真剣に考えてくれるのは、主任がとてもいい人だからですね。でも大丈夫です。もしも私が雅斗を愛していたら、死ぬほどつらいんでしょうけど……幸か不幸か、まったく平気なので」


「エレナ……あなた、あの二人をどうしたいの?」


「別に……そのうちどちらかが相手に飽きて、自然消滅するでしょうし。私と結婚しても子供が生まれても、彼は浮気するときはするでしょうし」


「……それで、あなたはいいの?」


「いいというか……私みたいな平凡な女は、それでも幸せな部類に入るんでしょうね。両親は雅斗と結婚することに大賛成だし、周りもみんなうらやましいって言うし。もしここで結婚を断ったとして、恋愛小説みたいに雅斗よりもさらに素敵な人に突然出会ってその人に好意を持たれて溺愛されて幸せになるとかなんて、絶対にありえないし。そもそも、そこで言う『幸せになる』ってどうなることか意味も分からないし。私は私の役目を果たせばいいのかなって思うだけですね」



 森崎はグラスを一気に呷って深いため息をついた。


「あんまりウザいことを言ってあなたを困らせたくはないんだけど。ひとつだけ言わせてもらえば……あなたの役目を果たすって言うところが、私には納得いかないわ。あなたは須藤の人生のわき役である義務も必要もないのよ。あなたはあなたの人生の主人公だもの」


 エレナは柔らかい笑みを浮かべた。


「ふふ。だから私は主任が好きなんです。あなたは行動力があって自身に満ち溢れて光り輝いていて、思いやりがあって人望も厚いのに……まっすぐですごく純真で……」


「や、やだ、人に褒められるの苦手って知ってるでしょ? やめてやめて!」


 森崎は胸の前で両てのひらをぶんぶんと振った。


 エレナはテーブルに肩ひじをつき、頭を手にもたれて窓の外に視線を流した。


「もしも私が主任みたいな人だったら……そもそも、雅斗とは付き合わなかっただろうな。さっきみたいに……私にも夢はあるんですけど、それを実現する行動力も勇気もなくて。ちょっと土をかけられたら流れがふさがれてしまう小さな小川は、橋を架けるのも一苦労な大河の流れに合流して流されていくのが楽でいいんです」


「はぁ。すっごくわかりやすいたとえね。たしかに私なら……自己中男は……あぁ、ごめんね、遠慮するわ」


 エレナは視線だけ目の前の森崎に向けてふにゃりと笑んだ。少し酔いが回って、彼女の目の周りはほんのりと上気して見える。



「これに関する私の悩みなんて、些末なことです。私も、いろいろと考えてあるんですよ。例えば、雅斗が働いている間、私はのんびり習いものでもしようかなとか。パートでもして、不測の事態のためにお金をためておこうとか。でも今は一つ、とてもやりたいことができたから、たぶん耐えられます」


「なに?」


「バレエ。やりたいことはいつ始めても遅すぎないって、主任が言ったでしょう?」




 森崎は椅子の背にもたれて再び深いため息をついた。そして口元をくいっと上げて苦笑した。


「私もあなたのことはお気に入りの後輩なのよ。まじめでおとなしいだけじゃなくて、そういう、転んでもただでは起きなさそうなところね。私よりはるかに現実的で、大人なところ」


「ふふ。転んでもただでは起きるなって私を鍛えた本人でしょう?」


「確かに」


 二人はくすくすと笑った。



「どうせ子供が生まれれば、ダンナなんてうっとうしいだけだって竹井先輩が言ってました。お金を稼いできてくれればそれでいいって。雅斗はプライド高いけど見栄張りな面も強いから、家庭は大事にしそうです。子供をかわいがってくれるなら、私に関心が薄くてもいいかな」


「はは……あなたもうすでに一、二回結婚したことある人みたいだわ」


「できれば、結婚なんてしたくないですけどね。でも両親の期待もあるし、結婚したいって言ってくれてる人がいるなら、するべきなんだろうなって。燃え上がるような大恋愛でなくても、みんなに祝福されて喜んでもらえるなら、それでいいかなって。まったく私の好みではないですけど、プロポーズは子供に教えてあげられるようなロマンティックなものだったし」


「確かに……誰にでもできるプロポーズではないわね」


 二人はまたくすくすと笑う。


 地上350メートルのプロポーズ。宝石箱をひっくり返したような夜景の上空で、パパがママにプロポーズしたのよ。


 子供はきっと、目をキラキラと輝かせながら、その話をするように何度もせがむだろう。




「あなたが秘密の話を話してくれたから、私もひとつ」


 二杯目はピノ・ノワールを頼んだ森崎が、大きなブルゴーニュグラスのふちを長い指で触れながら言った。


「なんですか?」


 エレナは首をかしげた。


「私ね、もうすぐ会社を辞めようと思うの」


「ええ? どうしてですか? 部長になんかパワハラでもされたんですか?」


「ううん。なんだか、生き方を見直したくて。私も……改めて自分の人生を見直してみたくて」


「どうしてまた……」


「いつまで今の仕事を続けるのか、転職はしないのか、全く見通しがつかなくて。ずっと東京にいたいわけでもないし、ここには未練を残すほど思い入れの強いものが何もないかなって」


「いなかに帰るんですか?」


「そうね。帰るかもしれないし、どこか行ったことのないところに行ってみるかもしれない」


「怖くは……ないですか? 安定した今の日常を捨てるのって」


「んー。不安はあるけど、でも思い立った時がチャンスだと思うの」


「うわぁ。主任、さすが。素敵です!」


「ありがと。みんなには、まだ内緒ね」


「はい。私たちだけの秘密ですね」


「うん」




 会計を済ませて店を出る。


 通りを駅に向かって歩き出すと、エレナはネオンの向こうの空を指さした。


「あー、見てください主任。スカイツリー。今日は青いですね」


 森崎はエレナのさすほうを見て笑った。


「ホントだね。私、青いスカイツリーが一番好きだわ」


「私はムラサキが好きです」


「え? あれって、ムラサキだったの? ピンクかと思ってた」


「ピンクは桜の花の季節の特別色で、あれは江戸紫っていうムラサキ色だそうです」


「へぇ~。そうなのね。長年見てるのに、初めて知ったわ」


「私もこの前知りました」



 駅の改札をくぐり、二人は向き合う。


「じゃあ、今日は付き合ってくれてありがとうね」


「おさそい、ありがとうございました。初めて誰かに話を聞いてもらって……あきらめがついたっていうか、新しい希望を見出したっていうか、すごく気持ちが穏やかになりました」


「いつでも吐き出して。じゃあ、また明日」


「はい、また明日」


 にっこりと微笑みあって、別々のホームへの階段を上がる。


 また明日。


 

 森崎の乗った電車が出発する。


 反対側のホームからそれを見送ると、エレナはスマホが震えたのに気付いた。画面を見ると、雅斗からのメッセージだった。



 ひとつ、小さく息をついて、エレナは返信するためにスマホの画面にタッチした。

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