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第10話
「エレナ?」
残業の帰り道。駅に向かう途中のバレエの店のショーウィンドウをなんとなくぼんやりと見入っていると、背後から声をかけられた。
「主任」
声の主を振り返ってエレナはほほ笑んだ。先輩の森崎が、きょとんと首をかしげていた。
「どうしたの? ぼんやりしちゃって」
すらりと背の高い森崎の美しさにちょっと見とれて我に返り、エレナは苦笑する。
「これ見たら、小さいころの夢を思い出したんです」
コツコツとヒールを響かせて、森崎はエレナの隣まで来て同じようにショーウィンドウの中を見た。
「へぇ。あなたはバレリーナになりたかったの?」
真っ白なチュチュを身に着けた白い顔無しの布製のマネキンが、アラベスクのポージングをしている。ピンクや黄色、淡いブルーの風船、ピンクのサテンのトウシューズやパウダーブルーのバッグが飾られている。
「そんなたいそうなものじゃないですけど……バレエ、習いたかったなって思って」
森崎はくすっと笑った。
「なら今からでも始めればいいじゃない?」
エレナは驚いて丸い目で森崎を見た。
「えっ?」
「今から始めてもいいじゃない? やりたいことはいつから始めても遅すぎることはないわ」
「さすが主任。超ポジティブ。でも、思いつき増しませんでした。今から始めてもいいんだ……」
「自分の人生でしょ? 誰に遠慮する必要もないわ」
二人はふふ、と笑った。
「もし時間大丈夫なら、ご飯行かない?」
森崎は首をかしげた。エレナはこくこくとうなずいて即答する。
「ええ、行きましょう!」
二人は繁華街の手前の静かなダイニングバーに入った。
「誘ってからなんだけど。いいの? ヤツは」
スマホから顔を上げ、エレナはほほ笑んだ。
「ああ、はい、あっちも接待みたいなので」
「そっか。なら安心。はい、お疲れ」
冷えたロゼのグラスをこつんと合わせて二人は乾杯した。
「最近、なんか元気なくない?」
森崎の言葉にエレナはくしゃりと苦笑した。
「わかっちゃいます?」
「うん。みんなは気づいてなさそうだけど。なに、ケンカでもした?」
「いいえ。そういうのじゃないですけど。ただ」
「ただ?」
「なんか……冷めた自分が私の中にいて。全然、うれしく思えないんです」
「う、わ。マリッジ・ブルーってやつかな?」
森崎は目を見開いた。
「いいえ。主任だから本当のこと言いますけど、もうずっと……付き合い始めたころから、なんかモヤっとしてるんです」
「あー、なんか、爆弾発言だね。プライドモンスターの須藤が聞いたらマジギレしそう」
「もちろん、言えないですよ」
「なるほど。それで悩んでるのね?」
こくり。エレナは真顔でうつむいたままうなずいた。
「彼は……カンペキです。私にはもったいないです」
「そんなことないでしょ。あなたのほうがあいつにはもったいないと思うな」
「そう言ってくれるのは、主任くらいです。みんな私がうらやましいって。でも……」
ふう、とエレナは深いため息をついた。
「あの人と結婚してずっとうまくやっていく自信がないし、そういう未来を想像することもできないんです」
「でも、プロポーズ、受けちゃったんでしょ?」
「だって。知らない人たちがたくさんいる場所で……恥をかかせることなんてできないから……」
「あー。うん……あなたは、須藤のこと、愛してないってこと?」
「そうですね……彼も、私のこと愛してはいないと思います」
「ええ? ならなぜ、あなたにプロポーズするのよ? その指輪、結構高そうだけど?」
森崎はエレナの左の薬指のダイアモンドに視線を落とした。オレンジのランプの光を含んで、それはキラキラと……あの夜の天望デッキから見下ろした夜景のようにきらめいている。
「彼にとって……体裁は大切なことなんです。逆に言えば、それさえ整っていればいればいいんですよ」
「どういうこと?」
「自分の人生にプラスになるものかそうでないかで物事の価値が決まるんです。人間も同じです」
「はは。ヤツらしいね。あなたは前者ってわけね」
「そうです。私は彼にとって理想的な結婚相手なんですよ。言うこと聞くし金遣い荒くないし、彼に釣り合う家庭環境と学歴で。彼の性格もある程度理解できてるし」
「そう言っちゃうと、なんか身もふたもないわね」
森崎は乾いた笑いを美しい横顔に浮かべた。五階のほの暗い店内から夜の通りを見下ろして、エレナはため息をついた。
「主任は、浮気する男ってどう思います?」
「ええ? 私はダメだな。こそこそ浮気すること自体嫌だし、バレて謝られても許したくない。一回浮気したら、その後も絶対にするよ。まぁ、人にもよるけど。たった一回でも私は許せないな」
「そうですよね。一回浮気したら、また浮気する確率は高いですよね」
「いやだ、なぁに? あいつ、浮気してるの?」
森崎にとってはエレナだけでなく、雅斗も後輩にあたる。エレナは淡い苦笑を浮かべる。
「そうですね。絶対に私にはバレてない自信はあるみたいですけど。ちょこちょことね」
「はぁ?」
ちっ、と森崎は舌打ちする。
「実は……今夜も接待と言いながら……ほかの女性と会ってますね」
「えええっ?」
「主任に声をかけられるちょっと前に見ちゃったんですけど。なんと相手は……」
森崎は目を見開く。
「まさか。うちの会社の子とか⁈」
エレナは淡い苦笑を口元に浮かべた。
「男って……男全員じゃないですけど。しょうもない生き物ですよね。とくに上昇志向が強いと、今手にしているものよりも価値がありそうなものには、とりあえず興味を持つみたいで。私とは違うタイプだからかな……」
「いや! もう、だから、相手は誰よ?」
「今夜は……ミサキちゃんですね」
「はぁぁ? あなたの後輩じゃないの! っていうか、あの子も何なの? 須藤があなたにプロポーズしたって知ってるのに!」
「主任、落ち着いてください。たぶん二人とも、本気じゃないと思います。雅斗は可愛くわがままを言うミサキちゃんに新鮮味を感じてるんでしょう。ミサキちゃんも、私のものを盗む優越感で誘いに乗ってるだけでしょうし」
「お互いに軽い遊びってこと?」
「あの二人の性格なら、十中八九そうでしょうね」
「あなた、嫌じゃないの?」
「そこが問題なんです。まったく……他人事みたいに平気なんです」
「……」
森崎は何かを何度か言いかけては止めを逡巡しながら、肉感的で魅力的な唇をもごもごと動かした。
エレナはふふ、と笑った。
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