H350

第9話

「俺と一生幸せに暮らそう、エレナ」



 天望デッキからの眼下に広がるのは、きらきらと光り瞬く夜景。雅斗マサトはスーツ姿のまま跪いて、驚くエレナに指輪の箱を差し出した。


 周囲の人々が二人を見て息をのむ。



 夜景にも負けないほどに燦然と輝くラウンドブリリアントカットのダイアモンドは、黒いベルベットの布が張られた小さな箱の中でこれでもかと絶対的な存在感を発揮している。


 さあ、私を受け取って。あなたは今夜、世界で一番幸せな女なのよ。


 そう言って、指輪はエレナを威圧してくる。



「あ……」


 何と答えたらよいのか混乱してわからなくなって、目の前で跪いている雅斗に目を落としてエレナははっと目を見開いた。



 彼の目には、いら立ちが沸き起こってきている。早く受け取れよ。いつまでこの姿勢でいさせる気だよ? 


 そう思っているんだろうな。彼女は慌てて手を差し伸べた。


「はい」



 周囲からざわめきが起きて、ぱちぱちと拍手が聞こえる。やっと雅斗の口元が引きあがる。


 彼は立ち上がり指輪を箱から抜き取ると、エレナの左の薬指に有無を言わさずはめ込んだ。



(痛っ……)


 少し強引に押し込んだせいか、一瞬の痛みにエレナは左目を閉じた。それでもなんとか雅斗に笑顔を返し、彼女は彼を見上げた。自信に満ちた魅力的な顔が、思い通りに事が運んだことで満足げに見える。雅斗はエレナを抱きしめた。



 周囲からの祝福の言葉と拍手の雨の中、地上350メートルでの彼の公開プロボーズは大成功を収めた。





「おめでとう~! 見せて見せて! うわ~! めっちゃ輝いてるわっ!」


 出勤してすぐに、同期のカリナがエレナの左手首をがっちりと捕まえてはしゃいだ。同僚の子たちが三人くらい寄ってきて、カリナの後ろからエレナの指輪を観察してニヤついた。


「きゃ~! おめでとう! ついに、ね」


「おめでと、エレナ。よかったね~」


「何カラット? おっきいね! 須藤君、奮発したのね」


 普段から大勢の中で話題の中心になったことのないエレナは落ち着かなくてそわそわしてしまう。



「あ、ありがとうございます」


「彼のことだから、すっごく目立つところでのプロポーズだったんじゃぁなぁい~?」


 エレナは先輩に肘で腕をつつかれて苦笑する。


「ええ……スカイツリーの天望デッキで……」


 みんなが一斉にきゃ~と黄色い声をあげた。



「さすがやり手の営業マンだけあって、セットは抜かりないわね。ああ、私のダンナもそれくらい女心をくすぐってくれるような人なら良かったんだけど!」


「ははは。先輩の旦那さんにはムリムリ。須藤さんみたいなイケメンがやるからかっこいいんじゃないの」


「なによっ。ウチのダンナが……まあ、確かにそうね。須藤君とエレナだから絵になるのよね」


「はいはい、みなさん。もうすぐ朝礼よ。続きは今夜の女子会でね?」


 ぽんぽん、と主任の森崎が手を打つ。エレナの指輪に群がっていた女子社員たちは、はーいと返事をして席に着いた。



 エレナはほっと安堵して、森崎に小さく頭を下げた。彼女はエレナにウィンクする。エレナは口元に笑みを浮かべた。


 森崎はエレナの六つ上の先輩で、エレナが新入社員時の指導係だった。美しく聡明でとても気さくで思いやりのある彼女のことが、エレナは大好きだった。会社で最も尊敬する人は誰かと訊かれたら、エレナは迷わず森崎だと答えるだろう。



 テニスコート二枚分はある広いオフィス。エレナ達総務部のある壁際の反対側では、男子社員たちのおおぉ、というどよめき声が上がる。


 その中心で機嫌よさそうに笑っているのは雅斗だ。プロポーズが成功したことを、上司や同僚たちにからかわれている。彼ははしゃいではいない。余裕のある堂々としたようすで同僚たちのからかいを交わしている。穴があったら入りたいと思って落ち着かないでいるエレナとは対称的だ。



 そう。


 昨夜恋人から求婚されたはずなのに……



 エレナは、他人が指摘してくるほどの幸福感も高揚感も感じていなかった。


 それどころか、漁網につける鉛のおもりのような不安が心にいくつもぶら下がっているように、ずーんと落ち込んでいる。



 社内だけでなく取引先の女子社員たちからも人気の高い雅斗。いつも自信に満ち溢れていて格好良くて、とても魅力的な男。


 そんな雅斗に付き合ってほしいと言われたこともプロポーズされたことも、周りにとてもうらやましがられた。エレナだって、最初はどうして彼がエレナのどこを気に入ったのか、全く理解できなかった。


 クラスに一人はいる、女の子に人気のキラキラとした男の子。そんな子がそのまんま大人になったみたいな雅斗。彼の言うことには影響力があって、彼の魅力はあらゆる人に好意を抱かせる。


 エレナは、地味な性格だと自負している。ほどほどに流行に乗ったファッションやメイクや髪形で、特筆すべき才能もないし絶世の美女でもない。交際を申し込まれるまでは雅斗と個人的に話したこともなかった。同じオフィスの端と端にいて顔見知り程度。いや、営業部でも目立つ雅斗の存在をエレナが知ってはいても、雅斗がエレナを認識しているとは思わなかった。



「ねえ、小嶋さん。もしよかったら、金曜日の夜ににちょっと時間もらってもいいかな」


 三月のある日。


 昼休みの終わりかけに、廊下で呼び止められてそう訊かれた。からかわれているのかと思った。でも、彼は少し照れくさそうにまじめなまなざしでそう言った。


 こそっと訊くでもなく、彼はまるで会議の開始時間でも訊くみたいにごく普通に訊いてきた。何人かに聞かれたけれど、彼は平気だった。だからエレナは何か彼が用事でもあるのだろうと思い、はいと答えた。



 小ぢんまりとしたおしゃれなギリシア料理店のキャンドルライトディナー。


「半年ぐらい前から、きみのことが気になってたんだ。周りがきみにはカレシがいないって。だから思い切って誘った。俺と付き合ってほしいんだ」


 当時、エレナには付き合っている相手も気になる相手もいなかった。人気者からの告白は気が引けたけれど、熱心に口説かれて折れた。


(私みたいな平凡な女が、一度くらい人気者の彼と付き合ってみてもばちは当たらないんじゃない?)


 そんなくだらないことを思っていた。



 しかし意外(?)にも、雅斗はとても優しくてエレナを大事にしてくれた。


 

「付き合って一年の記念に、今週末は期待しててよ」


 彼はそう言って笑っていた。それがまさか、夜景を見下ろす地上350メートルでのプロポーズだったなんて。


 ロマンティックなシチュエーションで、すてきな恋人からダイアモンドの指輪をプレゼントされたのに。


 ふわふわと心に沸き立ってくるのはとろけるような幸福感ではなく、得体のしれない不安ばかりなのだ。



 「……」


 朝礼が始まる。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。


 (—―気のせい?)


 視線を感じたほうを見ると、みんな顔を下に向けている。


 総務部の部長がしゃべっている。



 エレナはかすかなため息をついた。


(……?)


 もう一度、視線。


 さっきよりも素早く反応して顔を向ける。


「……」


 エリカの後輩、ミサキ。エリカは淡く微笑んだ。ミサキも同じように微笑み返し、そして視線をそらせた。



 何でもない、ただ目が合っただけなのに。


 

 とくん、心臓がざわめく。



 この違和感は……

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